「北倭と南倭」5

 公孫氏(大物主の命)の燕。

 公孫氏(ユダヤ人イカッサル族)が史書に登場するのは『魏志』からです。その紀には「度、中平六年(一八九年)をもって遼東に拠る。淵に至るまで三世なり。凡そ五十年にして滅ぶ」と記しています。

 公孫氏の先祖はソロモン王の子孫たちの時代、イスラエル王国よりタルシシ船でインドシナ方面に渡来し、メコン河流域・バンチェン文化圏の支配者となります。王家の次男であった公孫燕はバンチェンに十五年ほどいましたが、しばらくしてセレベス島のメナドに移ります。そのあと長男がバンチェン支配を受け継ぎ、次男であった燕は分家します。しかしながら、やがて二十年後、公孫氏のバンチェン支配は終了します。

 後漢の末期(二世紀)、セレベス島を本拠としていた分家の公孫燕がクメール人を引き連れて、中国遼東へと大移動します。公孫氏系のコロニーがあったボルネオの港を経由し、東シナ海沿岸(公孫氏らタルシシ船の要港・河南省を含む)を経ての長途の旅でした。ようやく長旅を経た一行は遼東に定着しました。

 こうして公孫氏は戦国時代の諸侯となり、やがて燕の子・公孫域が遼東の玄菟郡太守となります。ちなみに、メナドとはフェニキア人が日本に渡来して各地に「津」を作り、それを港と名付けた語源の地です。今でもメナド人は鰹のぶつ切りなどを好んで食べますが、観光客に接する娘さんたちは古の「大和撫子」そっくりです。

 漢の中平六年(一八九年)、域の子・公孫度が遼東太守から燕国の王(在位一八九年~二〇四年)として独立します。(大物主命の燕)。

 次に度の長男・公孫康(事代主の命・二〇四年~二二一年)が在位し、在位中、扶余族とともに南下して帯方郡(ソウル・ボルネオ語の発音・新しき邑の意ー韓国ではソウルの語源を巡って異論があるようですが、これが本当の語源です。ちなみに、古代ボルネオ語は現在のフィリピン語として残されています)を建てさらに南下して九州の投馬(加古島)国王となります。「国史」はこの王を道臣命・大物主櫛甕玉命とも称しています。

 次に、度の次男・公孫恭が燕王(二二一年~二二八年)として在位し、続いて、恭の長男・公孫淵(二二八年~二三八年)が即位しますが、二三八年、魏の司馬懿仲達(のちの宣帝)によって滅ぼされます。これが第三の「燕」です。

 公孫度は日本史では大物主命(大神氏)であり、康が事代主命です。度の次女のアラツヒメノが扶余王仇台二世(神武)の先妃となり、先妃の死後、度の宗女(長女)が神武の後妻となり、夫唱婦随して、いわゆる「神武東征(南征)」を行います。これが「魏志」倭人伝にいう卑弥呼です。

 「北倭と南倭」4

 前六世紀、河南省洛陽北方の平陽に移民したマカン人(番韓人)の集団が中原に「韓」(首都・鄭)という小国家をつくります(戦国時代)。

 前三二四年、アレキサンダー大王の東征軍に従った、エラム人の将軍サトラップと同僚のマザウェスはシルクロードを驀進して長安に至り、ついに洛陽の「韓」攻撃に参加します。やがて大王の軍が、中国先住民族の治め難さを知り、インドへ転進して引き揚げたのちに、将軍マザウェスの部隊が韓人(番韓人)とともに遼東に移動して「箕子朝鮮」を建て、先住のカルデア人の遺民をも吸収します。これが第二の「燕」です。

 やがて漢人たちは、前者カルデア人の燕を「智淮氏燕」と呼び、後者エラム人の燕を「召口の燕」または「セラミス軍団の燕」と呼んで区別します。かくして、箕子朝鮮の王族以下が満州に先住していたチュルク人や匈奴(フン族)と盛んに混血し「東湖」と称します。その中で、中山国鮮虞の胡人が主な東湖です。その東湖の鮮卑族から契丹・昆莫城・室韋の三部族が生まれます。さらにそこから蒙古族が誕生します。

 前一九五年、漢がエラム人(召口)の燕を滅ぼします。このあと、漢に屈服した燕人衛満が奇計をもって箕子朝鮮を滅ぼし、王倹城に衛氏朝鮮を建てます。

 前一二八年、箕子朝鮮の上将卓が一族を率い、楽浪郡月支(平壌)に辰国(中馬韓)を建てます。このとき、箕子朝鮮と行動を共にしていた秦の亡命ユダヤ人「失われた十部族」のうち七部族が南下して、慶尚南道(慶州)に馬韓の分国を建て、辰韓または秦韓と称します。

 前一〇八年、漢が衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪・臨屯・真盤・玄莵の各郡を置きます。

 「北倭と南倭」3

 三回も王朝が替わった「燕国」の歴史。一つ目は「智淮氏燕」(カルディア人の燕)。前一〇一三年、イシン王国(バビロン国)の末期に、フェニキア人のマカン(海の国・番韓)がウラルトゥ(後のウガヤフキアエズ王家)とともにアッシリアと戦った。その結果、アッシリア王シャルマネサル二世の攻撃によりイシン(殷の本国)が滅んだため、番韓のヤードゥ族は海に浮かんでインドへ逃れ、ウラルトゥ(潘族)は北方ヴァン湖(トルコ)周辺に退き、シャキィ族(宛族)は南に下って後に河南省南陽(宛)の徐氏(後のニギハヤヒ王家)となります。

 この時、カルディア人はアッシリア軍に捕らわれていたイシンの王族・子叔箕賖(シンマシェフ王)を奪い返し、はるばる航海して渤海湾に至り遼東半島に上陸します。そしてカラキに築城して国を建て、辰迂殷、すなわち「箕子朝鮮」と名付けます。

 これを、『契丹北倭記』は次の様に記しています。

「ここに至り、アッシリアおよび周王朝(中国におけるアッシリアの分国)はイシン(殷の辰国・箕子朝鮮)征討を断念し、その王箕子を封建(諸侯)にしようとしたが、箕子はこれを拒否した」

 前一〇〇六年、アッシリアのバジ王家とエラム人が攻撃してきたので、箕子の一族はシルクロードを辿り、金鉱のある湖底の都イッシク・クルに退いて都した。

 その歴史について箕子国の史書『辰殷大記』は「箕子は老いて子がなかった。王はまさに東に引かんとして、海の国の末王カシュナディンアッヘ(前一〇〇六年~前一〇〇四年)の王子を養子とし、ついで没した(八六歳)。この王子は倭国史の天の国常立尊である」と述べています。これが第一の燕です。

 「北倭と南倭」2

 新羅・朴氏の祖の南解次々雄は狗奴国王でした。前三世紀から三世紀にかけて、狗奴国(沖縄・南倭人のクニ)は朴氏(クシャトリア)の植民地です。すなわち、牛トーテムの王妃族蕭氏がバアル教(ユダヤ人の宗教)の神官「キキタエ」の家系です。そのため「契丹北倭記」は朴氏の狗奴人(南倭人)を契丹族の祖としています。

 三世紀以後の東日流の荒吐五王国は扶余族と公孫氏の「北倭人」に追われた狗奴人が船団を組んで日本海沿を移動し、亡命先に建てた植民地です。また、沖縄の尚氏と契丹の王家の紋章はともに三つ巴で、新羅王家(蘇我氏・金氏)の家紋も同じで、韓国の国旗に引き継がれています。

 『契丹北倭記』はフェニキア人の歴史書でした。

 1904年(明治37年)日露戦争の最中、陸軍経理将校・浜名寛祐は奉天(瀋陽)郊外のラマ寺で古文書を発見し東京に持ち帰り、二十年の探求解読の末、『日韓正宗遡源』として世に出します。さらに、その研究を深めた浜田秀雄・鹿島曻の両氏が適切な解説文を加えて「契丹北倭記」(別名「倭人興亡史」)を発表します。こうして、この「北倭記」が世界的にも珍しいフェニキア人の「史書」であることが明らかにされました。

 ではなぜ東大教授の黒板勝美氏に「燕国」の歴史が分らなかったのか。

 それは、前十一世紀以後、「燕」という国が三回も王家がかわり、人民もかわりました。それに応じて前三世紀以来、箕子朝鮮が「奇士朝鮮」になり、番韓→馬韓→辰韓→三韓(高麗・百済・新羅)へと発展した歴史が、秦始皇帝の「焚書坑儒」およびそれを真似た三韓の三度にわたる「焚書」のため、非常に分かりにくくなったためか?

 

 

 「北倭と南倭」1

 司馬遷の『史記』の時代の『山海経』「海内東経」の地理誌を江戸時代までの儒学者は「蓋国(濊国)※ウガヤフキアエズ王家」は鉅燕(遼東)にあり、南倭と北倭は燕に属す」と読んで、門下生や塾生たちに教えていました。

 それを明治時代に偽史シンジケートの巨魁、東大史学科教授の黒板勝美氏が「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す」と意図的に?誤読して学生に教えました。

 こうして明治以後の皇国史観による学校教育で北倭・南倭の歴史を教えなくなり、扶余王神武が北倭人を率いて南倭人の国(東表国のちの日本)を侵略した歴史を分からなくします。

 そのため学者や神官たちの間でも、神武天皇や王妃・卑弥呼(後添え)の出自を知らない人々が殆となります。大学の教授や高校の先生たちも敬遠して、この問題には触れませんでした。

 『晋書』巻九十七「四夷伝」中に「もと男子をもって王となす。漢末………倭人乱れ、攻伐して定まらず、すなわち女子を立て王となす。名を卑弥呼という。宣帝(司馬懿仲達の尊号)平ぐる公孫氏なり」とある。これをもっても邪馬壱国(やまいこく)女王卑弥呼の出自は明らかです。また、鹿島昇氏の翻訳した『桓檀古記』には神倭イワレヒコ(神武)の出自が書いてありますが、大学の先生方はそれらを密かに読んでも「知らんふり」をしています。

 『契丹北倭記』の「北倭人」と「南倭人」には契丹(のちの遼)三族のうち、室韋蒙瓦部は雲南省の佤族と同民族で満州に残留した北倭人であり、同族の庫莫奚は扶余濊族のことで北倭人です。

 また、契丹の王妃族蕭氏と沖縄の王家尚氏は同族で新羅(加古島始良郡)の初期王家・朴氏(バンチェン王ナーガ族の漢姓)の出身でした。

「新羅・花郎軍団」3

 698年、統一新羅は渤海国(実は後高句麗国)の建国対策に追われ忙しく、日本の奈良朝廷を仔細にフォローする余裕がなく、始皇帝と同族のシメオン族々長になった鹿島生まれの不比等が中臣氏のもとで帝王教育を受け、占領軍司令官・郭務悰の仲介で八百年の敵対を超えてガド族津守氏の女・宮子と結婚し三男二女を儲け、中臣氏の引きで奈良朝廷に昇殿し新羅皇太子・軽皇子の傅役を仰せつかり隠れ妻・宮子を入内させ、701年首(不比等をなぞる)皇子を出産させます。(実は不比等との間に生まれた子供)。新羅本国の祖父の名前を継いで文武天皇を名乗っていた天皇は大喜びで、この皇子が立太子する日を待ち焦がれていました。その間に不比等は郭務悰や中臣氏の協力を得て藤原姓を名乗ります。

 707年、文武天皇が崩御し、首皇子が聖武天皇になります。更に不比等は次女の光明子を入内させ皇后にします。ここに新羅の奈良朝廷は不比等の奈良朝廷に様変わりします。更に、唐の保護を受けた神武・ウガヤ王家の桓武天皇の平安朝となります。

 新羅という主を失った花郎軍団は東国の散所・院内・垣内など関東各地に逃れ逼塞します。

 814年、嵯峨天皇(桓武天皇の次子)が源信以下の皇子・皇女に源姓を持った氏を授け臣籍に下します。後に花郎長官・源花の名と合わさり、源氏武士の源流となります。

 935年、中国の唐が滅び、新興の高麗によって新羅が滅ぼされると、新羅本国に残っていた花郎達は日本の同族を頼って渡来し、先着の花郎軍団と共に武蔵・摂津・越前・伊勢・陸奥などの荘園管理人となり、国主となります。源氏武士団の誕生です。

「新羅・花郎軍団」2

 672年、北九州の倭国を占領していた唐・新羅連合軍は花郎軍団長官・金庾信を更迭し新羅本国に召還し、百済軍人であった郭務悰(中臣鎌足のモデル)を再教育し連合軍指揮官に据え、宇佐八幡に駐留していた花郎軍団を委ね、飛鳥の秦王国に侵攻させます。花郎軍団の統率力を間近に見た、秦氏及びシメオン族等の諸部族は戦いの無意味さを悟り、一斉に寝返って連合軍に降伏します。秦王家を守る軍は孤立して総崩れとなります。

 これより以降、諸部族は新羅側の軍政に協力していきます。そのため機織部の秦氏及びダン族のグループは敗北し雪崩を打って秦王国の分国地の関東地方に逃れます。やがて彼等は鹿島神宮や静神社の機織部の領域付近や蘇我、行徳及び秦野付近に散居して逼塞します。

 673年、飛鳥浄御原に「新羅総督府」が樹立されます。その後、新羅の王子達(中臣氏と蘇我氏)がブレーンを引き連れ、次々に「奈良総督府」に進駐入府します。

 新羅文武王(金法敏こと天武天皇のモデル・来日せず)の王子達が奈良盆地に進駐して日本総督となり、日本の天皇として即位して行きます。奈良朝廷の誕生です。

「新羅・花郎軍団」1

 606年、インドのグプタ王朝がヴァルダナ王朝ハルシア王に滅ぼされため、傘下の騎士団は止む無く移動を開始します。金官加羅初代首露王に輿入れした、阿喩陀国の王女・黄玉、後の許太后の血縁を頼りに東南アジアから東シナ海を北上し満州を経て金官加羅の後継国新羅に入り外人部隊となります。彼らは「ギータ」という封建的な忠誠を尊ぶ三千人の武士団でしたが、長い移動中にホモセクシャルな軍団となっていたため、受け入れた新羅の人達は彼等を「花の野郎たち」と呼び、それを略して「花郎」と呼びました。花郎軍団の長官は「源花」と呼ばれ、「兵士」を「朗徒」と呼びました。その軍団の長官の地位に金官加羅の最後の王・金仇亥の曾孫・金庾信(中臣氏・中臣鎌足のモデル)が座ります。

 金庾信は「毗曇の乱」(蘇我氏と諸侯による王位争い)の時、新羅王子・金春秋を援けて、その鎮圧に成功すると、その縁で彼の妹が金春秋に嫁いだため、金春秋と金庾信は義兄弟となりました。やがて、太宗武烈王(天智の初期モデル)となった金春秋は捨て身の外交によって唐の高宗に取り入ることに成功します。

 新羅は隣接する高句麗と百済に囲まれ苦戦していましたが、唐・新羅連合を立ち上げます。かくして、唐・新羅連合は白村江の戦いで百済に勝利すると、その余勢を駆って北九州に侵攻し倭国を占領します。その時、占領軍の新羅軍元帥として列島入りしたのが「花郎の長官」金庾信でした。金庾信は引き連れた花郎軍団を祖先の地・宇佐八幡に駐留させます。

「倭の五王・金官加羅」4

 極東のブルボン王家と比喩される倭の五王の暦年は、

421年、金官加羅七代・吹希王即位、王妃は応神の娘・仁徳(『遺事』)。倭王・讃(仁徳)宋に修貢(『宋書』)

438年、倭王讃死す

443年、倭国王済、宋に修貢

451年、倭国王済、宋に入貢、加授される(『宋書』)

460年、倭国王済が死し、世子興が立ちます

477年、倭王興死し、弟武が立つ(「宋書」)

 金官加羅五代伊尺品王の代の377年、金末仇(サホヒコ)の子・金奈勿が斯廬国(金城)の地に「新羅」を建国します。金官加羅の分国です。金官加羅と同様、製鉄部族ヒッタイトの蘇我氏と商業部族エブスの中臣氏の連合国家です。

 金官加羅十代仇衡王の代の532年、安羅国(本国は九州日向の卑弥呼と壱与の祖国)は倭王が極東のブルボン王家と比喩される仁徳と吹希のファミリーに独占されるのを嫌い、新興の新羅と謀り金官加羅を挟撃し滅ぼします。その後、倭王は再び安羅から出されます。しかし、これは安羅の最大の失政となります。

 新羅は法興王の頃から征服王朝の性格を備え始め、次の真興王の時代には全盛期を迎えました。さらに、インド・クブタ王朝が滅亡したため騎士団がアユダ国の王女許黄玉の血筋を頼りに新羅に漂着し外人部隊=花郎軍団となります。

 562年、新羅は任那官家とも称される安羅国を滅ぼします。ここに安羅は半島南部の全ての権益を喪失します。

「倭の五王・金官加羅」3

 AD1~2世紀頃、建国から千年を経た東表国は国東半島、重藤海岸のタタラ製鉄が砂鉄資源の枯渇危機に瀕していたため、周辺各地に鉄鉱資源の探索を続ける中、韓半島南部洛東江河岸の亀旨峰に良質の鉄鉱石産地を発見します。秦帝国の興廃からガド族猿田彦とシメオン族大国主命の渡来。扶余王罽須(神武)のウガヤ王家と公孫氏大物主王家の渡来から北九州は争乱期を迎える中、東表国は凡そ三分の一の勢力を韓半島南部に送り製鉄を開始し、各地に鍛鉄製品の供給を始めます。

 製鉄と水田稲作が軌道に乗った段階の三世紀中葉、金官加羅が建国され、首露王(中臣氏)が初代王としして即位し、インドのアユダ国の王女許黄玉が輿入れします。東表国と同様に製鉄部族ヒッタイトの蘇我氏と商業部族エブス中臣氏の連合政権です。

 金官加羅は瞬く間に韓半島南部の盟主の地位を築きますが、本国の東表国は吉野ヶ里で初代大国主命が北倭軍の流れ矢に当たり倒れ、シメオン族が東遷するのを機に、残りの半分の勢力を東遷追従させます。

 金官加羅の王統は二代・居登王、三代・麻品王と続き、七代・吹希王の時、ウガヤ王家の応神の娘・仁徳を娶ります。仁徳は同時に倭大王・讃となります。ここに、極東のブルボン王家と比喩される倭の五王の始まりです。犬猿の仲であったウガヤ王家と東表国・エビス王家の邂逅です。以降、吹希と仁徳のファミリーは倭の大王家と金官加羅王家と百済王家の王を独占します。仁徳の弟・珍は倭王となり、息子・済は倭王・反正となります。 孫の興が倭王・安康、武が倭王・雄略で五代となります。