「新羅・花郎軍団」3

 698年、統一新羅は渤海国(実は後高句麗国)の建国対策に追われ忙しく、日本の奈良朝廷を仔細にフォローする余裕がなく、始皇帝と同族のシメオン族々長になった鹿島生まれの不比等が中臣氏のもとで帝王教育を受け、占領軍司令官・郭務悰の仲介で八百年の敵対を超えてガド族津守氏の女・宮子と結婚し三男二女を儲け、中臣氏の引きで奈良朝廷に昇殿し新羅皇太子・軽皇子の傅役を仰せつかり隠れ妻・宮子を入内させ、701年首(不比等をなぞる)皇子を出産させます。(実は不比等との間に生まれた子供)。新羅本国の祖父の名前を継いで文武天皇を名乗っていた天皇は大喜びで、この皇子が立太子する日を待ち焦がれていました。その間に不比等は郭務悰や中臣氏の協力を得て藤原姓を名乗ります。

 707年、文武天皇が崩御し、首皇子が聖武天皇になります。更に不比等は次女の光明子を入内させ皇后にします。ここに新羅の奈良朝廷は不比等の奈良朝廷に様変わりします。更に、唐の保護を受けた神武・ウガヤ王家の桓武天皇の平安朝となります。

 新羅という主を失った花郎軍団は東国の散所・院内・垣内など関東各地に逃れ逼塞します。

 814年、嵯峨天皇(桓武天皇の次子)が源信以下の皇子・皇女に源姓を持った氏を授け臣籍に下します。後に花郎長官・源花の名と合わさり、源氏武士の源流となります。

 935年、中国の唐が滅び、新興の高麗によって新羅が滅ぼされると、新羅本国に残っていた花郎達は日本の同族を頼って渡来し、先着の花郎軍団と共に武蔵・摂津・越前・伊勢・陸奥などの荘園管理人となり、国主となります。源氏武士団の誕生です。

「新羅・花郎軍団」2

 672年、北九州の倭国を占領していた唐・新羅連合軍は花郎軍団長官・金庾信を更迭し新羅本国に召還し、百済軍人であった郭務悰(中臣鎌足のモデル)を再教育し連合軍指揮官に据え、宇佐八幡に駐留していた花郎軍団を委ね、飛鳥の秦王国に侵攻させます。花郎軍団の統率力を間近に見た、秦氏及びシメオン族等の諸部族は戦いの無意味さを悟り、一斉に寝返って連合軍に降伏します。秦王家を守る軍は孤立して総崩れとなります。

 これより以降、諸部族は新羅側の軍政に協力していきます。そのため機織部の秦氏及びダン族のグループは敗北し雪崩を打って秦王国の分国地の関東地方に逃れます。やがて彼等は鹿島神宮や静神社の機織部の領域付近や蘇我、行徳及び秦野付近に散居して逼塞します。

 673年、飛鳥浄御原に「新羅総督府」が樹立されます。その後、新羅の王子達(中臣氏と蘇我氏)がブレーンを引き連れ、次々に「奈良総督府」に進駐入府します。

 新羅文武王(金法敏こと天武天皇のモデル・来日せず)の王子達が奈良盆地に進駐して日本総督となり、日本の天皇として即位して行きます。奈良朝廷の誕生です。

「新羅・花郎軍団」1

 606年、インドのグプタ王朝がヴァルダナ王朝ハルシア王に滅ぼされため、傘下の騎士団は止む無く移動を開始します。金官加羅初代首露王に輿入れした、阿喩陀国の王女・黄玉、後の許太后の血縁を頼りに東南アジアから東シナ海を北上し満州を経て金官加羅の後継国新羅に入り外人部隊となります。彼らは「ギータ」という封建的な忠誠を尊ぶ三千人の武士団でしたが、長い移動中にホモセクシャルな軍団となっていたため、受け入れた新羅の人達は彼等を「花の野郎たち」と呼び、それを略して「花郎」と呼びました。花郎軍団の長官は「源花」と呼ばれ、「兵士」を「朗徒」と呼びました。その軍団の長官の地位に金官加羅の最後の王・金仇亥の曾孫・金庾信(中臣氏・中臣鎌足のモデル)が座ります。

 金庾信は「毗曇の乱」(蘇我氏と諸侯による王位争い)の時、新羅王子・金春秋を援けて、その鎮圧に成功すると、その縁で彼の妹が金春秋に嫁いだため、金春秋と金庾信は義兄弟となりました。やがて、太宗武烈王(天智の初期モデル)となった金春秋は捨て身の外交によって唐の高宗に取り入ることに成功します。

 新羅は隣接する高句麗と百済に囲まれ苦戦していましたが、唐・新羅連合を立ち上げます。かくして、唐・新羅連合は白村江の戦いで百済に勝利すると、その余勢を駆って北九州に侵攻し倭国を占領します。その時、占領軍の新羅軍元帥として列島入りしたのが「花郎の長官」金庾信でした。金庾信は引き連れた花郎軍団を祖先の地・宇佐八幡に駐留させます。

「倭の五王・金官加羅」4

 極東のブルボン王家と比喩される倭の五王の暦年は、

421年、金官加羅七代・吹希王即位、王妃は応神の娘・仁徳(『遺事』)。倭王・讃(仁徳)宋に修貢(『宋書』)

438年、倭王讃死す

443年、倭国王済、宋に修貢

451年、倭国王済、宋に入貢、加授される(『宋書』)

460年、倭国王済が死し、世子興が立ちます

477年、倭王興死し、弟武が立つ(「宋書」)

 金官加羅五代伊尺品王の代の377年、金末仇(サホヒコ)の子・金奈勿が斯廬国(金城)の地に「新羅」を建国します。金官加羅の分国です。金官加羅と同様、製鉄部族ヒッタイトの蘇我氏と商業部族エブスの中臣氏の連合国家です。

 金官加羅十代仇衡王の代の532年、安羅国(本国は九州日向の卑弥呼と壱与の祖国)は倭王が極東のブルボン王家と比喩される仁徳と吹希のファミリーに独占されるのを嫌い、新興の新羅と謀り金官加羅を挟撃し滅ぼします。その後、倭王は再び安羅から出されます。しかし、これは安羅の最大の失政となります。

 新羅は法興王の頃から征服王朝の性格を備え始め、次の真興王の時代には全盛期を迎えました。さらに、インド・クブタ王朝が滅亡したため騎士団がアユダ国の王女許黄玉の血筋を頼りに新羅に漂着し外人部隊=花郎軍団となります。

 562年、新羅は任那官家とも称される安羅国を滅ぼします。ここに安羅は半島南部の全ての権益を喪失します。

「倭の五王・金官加羅」3

 AD1~2世紀頃、建国から千年を経た東表国は国東半島、重藤海岸のタタラ製鉄が砂鉄資源の枯渇危機に瀕していたため、周辺各地に鉄鉱資源の探索を続ける中、韓半島南部洛東江河岸の亀旨峰に良質の鉄鉱石産地を発見します。秦帝国の興廃からガド族猿田彦とシメオン族大国主命の渡来。扶余王罽須(神武)のウガヤ王家と公孫氏大物主王家の渡来から北九州は争乱期を迎える中、東表国は凡そ三分の一の勢力を韓半島南部に送り製鉄を開始し、各地に鍛鉄製品の供給を始めます。

 製鉄と水田稲作が軌道に乗った段階の三世紀中葉、金官加羅が建国され、首露王(中臣氏)が初代王としして即位し、インドのアユダ国の王女許黄玉が輿入れします。東表国と同様に製鉄部族ヒッタイトの蘇我氏と商業部族エブス中臣氏の連合政権です。

 金官加羅は瞬く間に韓半島南部の盟主の地位を築きますが、本国の東表国は吉野ヶ里で初代大国主命が北倭軍の流れ矢に当たり倒れ、シメオン族が東遷するのを機に、残りの半分の勢力を東遷追従させます。

 金官加羅の王統は二代・居登王、三代・麻品王と続き、七代・吹希王の時、ウガヤ王家の応神の娘・仁徳を娶ります。仁徳は同時に倭大王・讃となります。ここに、極東のブルボン王家と比喩される倭の五王の始まりです。犬猿の仲であったウガヤ王家と東表国・エビス王家の邂逅です。以降、吹希と仁徳のファミリーは倭の大王家と金官加羅王家と百済王家の王を独占します。仁徳の弟・珍は倭王となり、息子・済は倭王・反正となります。 孫の興が倭王・安康、武が倭王・雄略で五代となります。

 

「倭の五王・金官加羅」2

 約三千五百年前に始まった国東半島のタタラ製鉄開始を追う様に始められた金属文化を伴う水田稲作農業は五百~千年を掛けて日本列島全体に普及していきます。

 タタラ製鉄文化の足跡は各地に「炭焼き五郎」や「一つ目小僧」等の伝承が残り、「村の鍛冶屋」に各種の鍛鉄製品を運んだエブス人(恵比寿・胡・蛭子・戎・夷)の商人は各地にエビス神社を残します。

 近年、水田稲作農業の遺跡発掘が進み、佐賀県唐津市の菜畑遺構は16層からなり、放射性炭素14の年代比定から紀元前930年頃と確認されました。福岡県板付の遺跡は更に百年以上遡ります。菜畑や板付における水田では用水路、柵、堰、取水口、畦が発掘され、極めて整備された形で水田稲耕作が行われていた事が判明しています。

 前213年、秦始皇帝の「焚書坑儒」からシメオン族のガド族苛めが始まります。前86年、ガド族はリーダー猿田彦命(初代)に率いられ水田稲作農業が盛んな北九州に渡来し吉武高木に伊勢国を建国し、鉄鐸・銅鐸文化を列島に持ち込み北九州に勢力を張り始めます。東表国のエビス王クルタシロスは脅威を感じ、秦帝国が崩壊し半島南部まで移動してきたシメオン族と手を結び背振山地南部を割譲して渡来を促します。前74年、シメオン族は対馬経由で有明海から上陸し、鳥栖と吉野ヶ里に委奴国を建国します。シメオン族は大国主命を国王として推戴します。

 AD163年、東表国エビス王海部知男命は委奴国王大国主命と連合して、高句麗と同盟していたガド族猿田彦を攻撃し、その太陽神殿を破壊し、超大型青銅鏡を悉く破砕します。国を奪われた猿田彦のガド族は二手に分かれて亡命東遷します。

 AD210年、高句麗王子でもある扶余王の罽須(イワレヒコ神武)が北倭軍を率い南下し北九州糸島半島に橋頭堡を築きます。扶余王罽須と同盟し中国遼東にいた公孫氏(イカッサル族)の大物主王家も渡来し日向に投馬国を建国し、罽須の北倭軍と共同して大国主命の委奴国を挟撃します。委奴国王大国主命が遠矢に当たって戦死したため、シメオン族は急速に戦意を喪失し委奴国の吉野ヶ里は滅亡し、敗れたシメオン族は再びガド族を追う様に東遷します。

 AD213年、イワレヒコ(神武)は北倭軍を率いて公孫氏と連携して熊襲多婆羅国のニギハヤヒ軍団と戦い熊本付近で敗れますが東表国エビス王の安日彦の仲介で和睦します。

「倭の五王・金官加羅」1

 約三千五百年前、イスラエル王国の運航するタルシシ採鉱船が九州国東半島の重藤海岸に大量の砂鉄の堆積層を発見し、乗り込んでいたヒッタイトの製鉄カースト(後の蘇我氏)が野タタラの製鉄コロニーを築き大量のナマコ鉄を作り、武器や各種農具の鍛鉄製品に仕上げ、乗船していたエブス人(後の中臣氏)が華北の殷文化圏等に運び売り捌きます。

 それを、タルシシ船の運航に従事していたフェニキア人から伝え聞いたメコン上流の照葉樹林で栄えたバンチェン王国のシュメール人や苗族達がタルシシ船に乗り有明海の鳥栖に渡来し水田稲作農業を北九州に持ち込みます。

 水田稲作農業文化が北九州一帯に広がり重藤の製鉄コロニーも隆盛となり約三千百年前、エブス人とフェニキア人等が豊前京都郡に東表国・宇佐八幡宮を建て、タルシシ船の船長エブス人のクルタシロス一世が初代王となります。こうして、北九州に水田稲作の弥生文化が幕開いて行きます。千年王朝の始まりです。

「宇佐八幡」はヒッタイトの首都ハットウサの捩りで、「東表」は蛇神トウビョウを表しますがサバ国の対岸、今のソマリアにあったオッフル国の植民市を示し、オッフルは古くはプントと言い、ギリシャ神話ではデルフォイの都の旧名・プートンは蛇の意味です。蛇神は農業の神でもあります。

「ウガヤフキアエズ」5

 ウガヤ王家・北扶余王朝初代・解慕漱(前二百三十九年~百九十四年在位)を桓檀古記・北扶余紀は次の様に述べています。

「壬戌元年、帝、天姿英勇にして神光人を射るこれを望むに天王郎の若し。年二十三にして、天に従いて降る。これ檀君高列加五十七年、壬戌四月八日なり。熊心山に依りて起ち、室を蘭浜に築く。鳥羽の冠を戴き、龍光の釼を佩き、五龍の車に乗る。従者五百人と朝に則ち事を聴き、暮に則ち天に登る。ここに至りて即位す。

 癸亥二年、この歳三月十六日、天を祭りて烟戸の法を設け、五加の兵を分置して、屯田自給し、以て不慮に備えしむ。

 己巳八年、帝、衆を率い、往きて故郷に諭す。五加、遂に共和の政を撤す。ここに於て国人推して檀君と為す。これを北扶余の始祖と為すなり。※以下省略」

 二代・慕漱離(前一九三年~一六九年在位)

 三代・高奚斯(前一六八年~一二一年在位)

 四代・高(解)夫萋(前一二〇年~八七年在位)

四代の在位中にニギハヤヒ王家の濊王アグリナロシの子アグリイサシが漢の圧政を嫌い遼東太守彭吾を伐った後、国を率いて北扶余に合流します。前一〇八年、ウガヤ王家に代り北扶余王となり東明王と名乗ります。

 ウガヤ王家は押し出される様に東扶余に移ります。

東扶余王・初代・解夫萋(前八六年~四七年)

東扶余王・二代・金 蛙(前四七年~七年在位)

東扶余王・三代・帯 素(前六年~後二二年在位)

扶余王・初代・尉仇台(後一三六年~一六〇年頃在位)

扶余王・二代・扶 台(後一六〇年頃~一八〇年頃在位)

扶余王・三代・仇 台(神武)(後一八〇年頃~二三四年)

 と続きます。仇台(神武)はウガヤ五十二世と数えられます。

 

  

「ウガヤフキアエズ」4

 前五百八十五年、ウラルトゥ王国は崩壊します。ウガヤ第十代王のアルカ(桓子)は一族を率いて東遷、キンメリ族(匈奴)と同盟します。そしてウガヤ王家はシルクロードを流浪しながら中国大陸に入り、大月氏族の助けを借りて華北に趙国(首都・邯鄲/別称・大扶余)を建国します。中国史では魏、韓、趙、燕、楚、斉、中山の戦国七雄の一つに数えられます。この時、中国の中原は倭人諸国で占められており、漢民族は存在していません。

 一方、海のシルクロードを通ってニギハヤヒ王家は河南省南陽に宛の除として製鉄基地を形成していました。

 前三百三十四年、マケドニア王アレキサンダー大王の東征が始まります。

前三百二十四年、アレクサンダー大王の東征軍に従ったエラム人の将軍サトラップは長駆驀進し長安に至り、ついに落陽の「韓」を攻撃しました。アレクサンダー大王がバビロンで病死し、大帝国が分裂し、セレコウスがバクトリア王になります。

 前二百五十六年、アレクサンダー大王の東征に従軍したユダヤのシメオン族の裔のバクトリア知事ディオドトスがクーデターによって政権を奪取しグレコバクトリア(大秦国・大夏国)を立てディオドトス一世になります。

 前二百四十六年、ディオドトス一世はバクトリアの統治を二世(胡亥)に任せ、自らは精強なペルシャ軍団を率いアレクサンダー大王の夢であった中国に向かいます。名前を秦王政として中原諸国制覇に乗り出します。

 前二百三十九年、その大波をろもろに受けて大扶余(趙)にいたウガヤ四十二代・解慕漱(かいぼそ)が東北(満州)に逃れ、松花江河畔の農安に北扶余王朝(前期王朝)を建て王となります。

 前二百二十一年、ディオドトス一世・秦王政が中国を統一して秦帝国を建国し、始皇帝と称します。一方、南陽にある製鉄基地「宛の除」のニギハヤヒ王家も始皇帝の圧迫で海路を使い天の鳥船に乗って華北の搭子河流域に移動し「徐珂殷」を建国します。穢国と呼ばれます。そして殆どの倭人国家は中原を追われます。

 前二百十三年、始皇帝の焚書坑儒により、ユダヤのガド族はシメオン族に迫害され列島に向かいます。後に不比等と結婚する宮子が出ます。

 前二百十年、始皇帝急死。

 前二百六年、秦帝国滅亡。ユダヤのシメオン族のバクトリア人と中国の先住民族の高令やチュルク族やミャオ族達と混血し、後の漢民族の中核をなします。

 秦帝国の滅亡により権力の空白地帯となった中原に漢が勃興し、漢民族が生まれます。

 ユダヤのシメオン族はガド族を追尾し列島に向かい、先着していたガド族猿田彦の伊勢国を駆逐し、博多に委奴国を建て大国主王家となります。後に不比等を生みます。

 遼東半島にはソロモンとシバの女王の末裔、大物主王家の公孫氏が入り後にウガヤ王家の神武と大物主王家・卑弥呼との出会いが生まれます。

 

 

「ウガヤフキアエズ」3

前七百三十二年、アッシリア、ダマスクス王がユダ王アザリアを伐ち、住民のうち三万余をクエに、千二百人をウルサバに移します。この時、ユダヤ人の一部がウラルトゥに亡命します。

前七百十五年、ウラルトゥ王ルサス一世(ウガヤ三代)がメディア人ディオケスらと共にキンメリ(匈奴刀漫部)に侵入します。

前七百十四年、ウラルトゥは北方のキンメリ人に敗れます。アッシリア王サルゴンはウルミア及びヴァン湖に進撃し、ウラルトゥの聖都ムサシルを征服します。

前七世紀初め、キンメリとウラルトゥ・ヴァン国王は同盟しアッシリアに侵入します。アッシリアはスキタイと同盟し、これを迎え伐ち、小アジア方面に圧迫します。

前六百九十四年、エラム王、アッシリアを伐ち、センナヘブリの長子・バビロン王アッシュールナデンシュムを囚え、バビロンを奪ってネルガルウシュンプを王とします。

前六百八十五~六百四十五年、ウラルトゥ王ルサス二世(ウガヤ四代)在位、都をティシェバイオ(カルミル・ブルル)に移します。

前七世紀中頃、キンメリがウラルトゥに代って、小アジア東部を支配しますがアッシリアに退けられます。

前六百十二年、アッシリアが滅亡し、キンメリがスキタイに征服されます。キンメリの一部は外蒙古に逃れ匈奴になります。

前六百八年、ナボポラッサル(新バビロニア建国者)がウラルトゥに進軍します。

前五百八十五年頃、ウラルトゥの北方から印欧語族のアルメニア人が侵入し、首都ティシェバーナが陥落します。

前五百九十三年、ウラルトゥとマンナイ、スキティアと共にバビロンを攻撃しますが敗れます。ウラルトゥはシルクロードに亡命します。東遷の旅の始まりです。そして伯族と呼ばれます。