委奴国(博多と吉野ヶ里)を滅ぼした後の「倭国」の歴史は次のようでした。
二一三年、神倭イワレヒコ(神武)は公孫氏と連合して東表国を攻め、激しく争いますが、決着がつかないため、いったん和睦し、更に南下し多婆羅国(熊本)へ攻め込みます。五瀬命・神倭伊波礼彦命・事代主命の連合軍が阿蘇山系の孔舎衞坂(日下峠)で熊襲(ニギハヤヒ軍団)と衝突して激戦となり、先発隊の指揮を執っていた五瀬命の右肘に流れ矢が当たった(狙撃手に狙われたものか)。五瀬命は散々苦しんだ後、ついに崩御します。
高句麗王発岐(倭名・五瀬命)の遺体は竈山に葬られ、御霊は「草加(日下部)吉見神社」に鎮座して、絹奴部水軍および扶余族の後裔である阿蘇神社をはじめ高森町の方々が斎き祀り、千八百年の星霜を経て今日に至っています。
二一三年、イワレヒコ(神武)は公孫氏と連合してさらに南下し、熊襲(多婆羅国・ニギハヤヒ軍団)と戦い、いったんは熊本付近で敗北したものの、エブス人である高倉下命(東表国エビス王・安日彦)の仲裁で和睦します。
これについて「記紀」には、「まず高倉下命は『天つ神の御子が天より降ったと聞き追いかけて参った』と言い、宇摩志麻知命(ニギハヤヒノ尊の子)はこれを享けて、『天つ神の御印(十種神宝)を奉った』と記しています。
すなわち、ニギハヤヒノ尊の「和睦説話」は神武の伊都国(筑紫・北九州)と、陜扶や濊族らの多婆羅国(熊本・南九州)との合体を示しています。この、「十種神宝」奉呈は王権の禅譲を意味しており、以後、「三種神器」による天皇譲位の儀式となります。
前二一三年、秦の始皇帝の焚書坑儒によって始まったユダヤ人亡命者の「古代南北朝戦」が約四世紀を経てようやく一区切りを見せます。それが「神武東征(南征)」です。