「渤海・契丹」1

 神亀四年(AD727年)聖武天皇の姉で皇后の光明子に皇子が生まれ(実の父は百済王敬福)、十二月二十日、満州にある新興の渤海国から使節が突然、入京し渤海国と日本国は親戚である。皇子誕生に山のような土産を持参し友好国として親戚付き合いしましょうと言ってきました。

 渤海国の建国は両国のあずかり知らないことでしたが唐・新羅の植民地になっていた日本国の奈良朝廷が短期間にその状態から脱することの契機になります。新羅国は渤海国の建国の対応に追われ植民地日本の政情をウオッチングできなくなり、衰退し消滅します。

 翌年の渤海使の国書には渤海は扶余の後継者であり、日本もまた扶余の後継者であり、両国は本枝の関係にあると書いています。

 明治時代、朝鮮総督府が東大史学の創始者・黒板勝美教授などを動員して朝鮮中の史書を焚書させた中に桓檀古記という史書があり、太白教徒が命懸けで守った書です。その中に渤海国史「大震国本紀」が残っていて、次の様に述べています。

 正州は依慮の国都とする所なり、鮮卑・慕容廆のために敗られ、憂迫して自裁せんとし、忽ち念ず。「我が魂、尚未だ泯びざれば、則ち何ぞ往きて成らざらんか」と。

 密かに子・依羅に噣ね、白狼山を踰えて夜海口を渡らしむ。従う者数千、遂に渡り倭人を定めて王と為る。自ら三神の符命に応ずと為すを以て、群臣をして賀儀を献ぜしむ。或いは云う「依慮王、鮮卑の為に敗られ、逃れて海に入りて還らず。子弟走りて北沃沮を保つ。

 明年、子・依羅立つ。事後、慕容廆、また復び国人を侵掠す。依羅、衆数千を率い、海を越え遂に倭人を定めて王と為る」と。

 日本旧くは伊国に有り、亦伊勢と曰い、倭と同隣す。伊都国は筑紫に在りて亦即ち日向国なり。※以下略

 ここに登場する扶余国王依慮の子「依羅が倭王になった」とすれば、それはいわゆる「イリ王朝」の御間木入彦、すなわち崇神以外にないのすが、この王朝の三種の神器はこの時、聖武の所有になっていた。一方、依慮王の子弟が「北沃沮を保った」のが渤海の始まりであった。渤海国が扶余の子孫であり、日本と本枝の関係にあると主張したのは、まさにこのことを言ったのである。果たせるかな日本と渤海の親交は渤海国滅亡まで二百年の間継続し、渤海はこの間、三十四回使節を日本に派遣しました。