「倭の五王・金官加羅」3

 AD1~2世紀頃、建国から千年を経た東表国は国東半島、重藤海岸のタタラ製鉄が砂鉄資源の枯渇危機に瀕していたため、周辺各地に鉄鉱資源の探索を続ける中、韓半島南部洛東江河岸の亀旨峰に良質の鉄鉱石産地を発見します。秦帝国の興廃からガド族猿田彦とシメオン族大国主命の渡来。扶余王罽須(神武)のウガヤ王家と公孫氏大物主王家の渡来から北九州は争乱期を迎える中、東表国は凡そ三分の一の勢力を韓半島南部に送り製鉄を開始し、各地に鍛鉄製品の供給を始めます。

 製鉄と水田稲作が軌道に乗った段階の三世紀中葉、金官加羅が建国され、首露王(中臣氏)が初代王としして即位し、インドのアユダ国の王女許黄玉が輿入れします。東表国と同様に製鉄部族ヒッタイトの蘇我氏と商業部族エブス中臣氏の連合政権です。

 金官加羅は瞬く間に韓半島南部の盟主の地位を築きますが、本国の東表国は吉野ヶ里で初代大国主命が北倭軍の流れ矢に当たり倒れ、シメオン族が東遷するのを機に、残りの半分の勢力を東遷追従させます。

 金官加羅の王統は二代・居登王、三代・麻品王と続き、七代・吹希王の時、ウガヤ王家の応神の娘・仁徳を娶ります。仁徳は同時に倭大王・讃となります。ここに、極東のブルボン王家と比喩される倭の五王の始まりです。犬猿の仲であったウガヤ王家と東表国・エビス王家の邂逅です。以降、吹希と仁徳のファミリーは倭の大王家と金官加羅王家と百済王家の王を独占します。仁徳の弟・珍は倭王となり、息子・済は倭王・反正となります。 孫の興が倭王・安康、武が倭王・雄略で五代となります。

 

「倭の五王・金官加羅」2

 約三千五百年前に始まった国東半島のタタラ製鉄開始を追う様に始められた金属文化を伴う水田稲作農業は五百~千年を掛けて日本列島全体に普及していきます。

 タタラ製鉄文化の足跡は各地に「炭焼き五郎」や「一つ目小僧」等の伝承が残り、「村の鍛冶屋」に各種の鍛鉄製品を運んだエブス人(恵比寿・胡・蛭子・戎・夷)の商人は各地にエビス神社を残します。

 近年、水田稲作農業の遺跡発掘が進み、佐賀県唐津市の菜畑遺構は16層からなり、放射性炭素14の年代比定から紀元前930年頃と確認されました。福岡県板付の遺跡は更に百年以上遡ります。菜畑や板付における水田では用水路、柵、堰、取水口、畦が発掘され、極めて整備された形で水田稲耕作が行われていた事が判明しています。

 前213年、秦始皇帝の「焚書坑儒」からシメオン族のガド族苛めが始まります。前86年、ガド族はリーダー猿田彦命(初代)に率いられ水田稲作農業が盛んな北九州に渡来し吉武高木に伊勢国を建国し、鉄鐸・銅鐸文化を列島に持ち込み北九州に勢力を張り始めます。東表国のエビス王クルタシロスは脅威を感じ、秦帝国が崩壊し半島南部まで移動してきたシメオン族と手を結び背振山地南部を割譲して渡来を促します。前74年、シメオン族は対馬経由で有明海から上陸し、鳥栖と吉野ヶ里に委奴国を建国します。シメオン族は大国主命を国王として推戴します。

 AD163年、東表国エビス王海部知男命は委奴国王大国主命と連合して、高句麗と同盟していたガド族猿田彦を攻撃し、その太陽神殿を破壊し、超大型青銅鏡を悉く破砕します。国を奪われた猿田彦のガド族は二手に分かれて亡命東遷します。

 AD210年、高句麗王子でもある扶余王の罽須(イワレヒコ神武)が北倭軍を率い南下し北九州糸島半島に橋頭堡を築きます。扶余王罽須と同盟し中国遼東にいた公孫氏(イカッサル族)の大物主王家も渡来し日向に投馬国を建国し、罽須の北倭軍と共同して大国主命の委奴国を挟撃します。委奴国王大国主命が遠矢に当たって戦死したため、シメオン族は急速に戦意を喪失し委奴国の吉野ヶ里は滅亡し、敗れたシメオン族は再びガド族を追う様に東遷します。

 AD213年、イワレヒコ(神武)は北倭軍を率いて公孫氏と連携して熊襲多婆羅国のニギハヤヒ軍団と戦い熊本付近で敗れますが東表国エビス王の安日彦の仲介で和睦します。

「倭の五王・金官加羅」1

 約三千五百年前、イスラエル王国の運航するタルシシ採鉱船が九州国東半島の重藤海岸に大量の砂鉄の堆積層を発見し、乗り込んでいたヒッタイトの製鉄カースト(後の蘇我氏)が野タタラの製鉄コロニーを築き大量のナマコ鉄を作り、武器や各種農具の鍛鉄製品に仕上げ、乗船していたエブス人(後の中臣氏)が華北の殷文化圏等に運び売り捌きます。

 それを、タルシシ船の運航に従事していたフェニキア人から伝え聞いたメコン上流の照葉樹林で栄えたバンチェン王国のシュメール人や苗族達がタルシシ船に乗り有明海の鳥栖に渡来し水田稲作農業を北九州に持ち込みます。

 水田稲作農業文化が北九州一帯に広がり重藤の製鉄コロニーも隆盛となり約三千百年前、エブス人とフェニキア人等が豊前京都郡に東表国・宇佐八幡宮を建て、タルシシ船の船長エブス人のクルタシロス一世が初代王となります。こうして、北九州に水田稲作の弥生文化が幕開いて行きます。千年王朝の始まりです。

「宇佐八幡」はヒッタイトの首都ハットウサの捩りで、「東表」は蛇神トウビョウを表しますがサバ国の対岸、今のソマリアにあったオッフル国の植民市を示し、オッフルは古くはプントと言い、ギリシャ神話ではデルフォイの都の旧名・プートンは蛇の意味です。蛇神は農業の神でもあります。

「ウガヤフキアエズ」5

 ウガヤ王家・北扶余王朝初代・解慕漱(前二百三十九年~百九十四年在位)を桓檀古記・北扶余紀は次の様に述べています。

「壬戌元年、帝、天姿英勇にして神光人を射るこれを望むに天王郎の若し。年二十三にして、天に従いて降る。これ檀君高列加五十七年、壬戌四月八日なり。熊心山に依りて起ち、室を蘭浜に築く。鳥羽の冠を戴き、龍光の釼を佩き、五龍の車に乗る。従者五百人と朝に則ち事を聴き、暮に則ち天に登る。ここに至りて即位す。

 癸亥二年、この歳三月十六日、天を祭りて烟戸の法を設け、五加の兵を分置して、屯田自給し、以て不慮に備えしむ。

 己巳八年、帝、衆を率い、往きて故郷に諭す。五加、遂に共和の政を撤す。ここに於て国人推して檀君と為す。これを北扶余の始祖と為すなり。※以下省略」

 二代・慕漱離(前一九三年~一六九年在位)

 三代・高奚斯(前一六八年~一二一年在位)

 四代・高(解)夫萋(前一二〇年~八七年在位)

四代の在位中にニギハヤヒ王家の濊王アグリナロシの子アグリイサシが漢の圧政を嫌い遼東太守彭吾を伐った後、国を率いて北扶余に合流します。前一〇八年、ウガヤ王家に代り北扶余王となり東明王と名乗ります。

 ウガヤ王家は押し出される様に東扶余に移ります。

東扶余王・初代・解夫萋(前八六年~四七年)

東扶余王・二代・金 蛙(前四七年~七年在位)

東扶余王・三代・帯 素(前六年~後二二年在位)

扶余王・初代・尉仇台(後一三六年~一六〇年頃在位)

扶余王・二代・扶 台(後一六〇年頃~一八〇年頃在位)

扶余王・三代・仇 台(神武)(後一八〇年頃~二三四年)

 と続きます。仇台(神武)はウガヤ五十二世と数えられます。

 

  

「ウガヤフキアエズ」4

 前五百八十五年、ウラルトゥ王国は崩壊します。ウガヤ第十代王のアルカ(桓子)は一族を率いて東遷、キンメリ族(匈奴)と同盟します。そしてウガヤ王家はシルクロードを流浪しながら中国大陸に入り、大月氏族の助けを借りて華北に趙国(首都・邯鄲/別称・大扶余)を建国します。中国史では魏、韓、趙、燕、楚、斉、中山の戦国七雄の一つに数えられます。この時、中国の中原は倭人諸国で占められており、漢民族は存在していません。

 一方、海のシルクロードを通ってニギハヤヒ王家は河南省南陽に宛の除として製鉄基地を形成していました。

 前三百三十四年、マケドニア王アレキサンダー大王の東征が始まります。

前三百二十四年、アレクサンダー大王の東征軍に従ったエラム人の将軍サトラップは長駆驀進し長安に至り、ついに落陽の「韓」を攻撃しました。アレクサンダー大王がバビロンで病死し、大帝国が分裂し、セレコウスがバクトリア王になります。

 前二百五十六年、アレクサンダー大王の東征に従軍したユダヤのシメオン族の裔のバクトリア知事ディオドトスがクーデターによって政権を奪取しグレコバクトリア(大秦国・大夏国)を立てディオドトス一世になります。

 前二百四十六年、ディオドトス一世はバクトリアの統治を二世(胡亥)に任せ、自らは精強なペルシャ軍団を率いアレクサンダー大王の夢であった中国に向かいます。名前を秦王政として中原諸国制覇に乗り出します。

 前二百三十九年、その大波をろもろに受けて大扶余(趙)にいたウガヤ四十二代・解慕漱(かいぼそ)が東北(満州)に逃れ、松花江河畔の農安に北扶余王朝(前期王朝)を建て王となります。

 前二百二十一年、ディオドトス一世・秦王政が中国を統一して秦帝国を建国し、始皇帝と称します。一方、南陽にある製鉄基地「宛の除」のニギハヤヒ王家も始皇帝の圧迫で海路を使い天の鳥船に乗って華北の搭子河流域に移動し「徐珂殷」を建国します。穢国と呼ばれます。そして殆どの倭人国家は中原を追われます。

 前二百十三年、始皇帝の焚書坑儒により、ユダヤのガド族はシメオン族に迫害され列島に向かいます。後に不比等と結婚する宮子が出ます。

 前二百十年、始皇帝急死。

 前二百六年、秦帝国滅亡。ユダヤのシメオン族のバクトリア人と中国の先住民族の高令やチュルク族やミャオ族達と混血し、後の漢民族の中核をなします。

 秦帝国の滅亡により権力の空白地帯となった中原に漢が勃興し、漢民族が生まれます。

 ユダヤのシメオン族はガド族を追尾し列島に向かい、先着していたガド族猿田彦の伊勢国を駆逐し、博多に委奴国を建て大国主王家となります。後に不比等を生みます。

 遼東半島にはソロモンとシバの女王の末裔、大物主王家の公孫氏が入り後にウガヤ王家の神武と大物主王家・卑弥呼との出会いが生まれます。

 

 

「ウガヤフキアエズ」3

前七百三十二年、アッシリア、ダマスクス王がユダ王アザリアを伐ち、住民のうち三万余をクエに、千二百人をウルサバに移します。この時、ユダヤ人の一部がウラルトゥに亡命します。

前七百十五年、ウラルトゥ王ルサス一世(ウガヤ三代)がメディア人ディオケスらと共にキンメリ(匈奴刀漫部)に侵入します。

前七百十四年、ウラルトゥは北方のキンメリ人に敗れます。アッシリア王サルゴンはウルミア及びヴァン湖に進撃し、ウラルトゥの聖都ムサシルを征服します。

前七世紀初め、キンメリとウラルトゥ・ヴァン国王は同盟しアッシリアに侵入します。アッシリアはスキタイと同盟し、これを迎え伐ち、小アジア方面に圧迫します。

前六百九十四年、エラム王、アッシリアを伐ち、センナヘブリの長子・バビロン王アッシュールナデンシュムを囚え、バビロンを奪ってネルガルウシュンプを王とします。

前六百八十五~六百四十五年、ウラルトゥ王ルサス二世(ウガヤ四代)在位、都をティシェバイオ(カルミル・ブルル)に移します。

前七世紀中頃、キンメリがウラルトゥに代って、小アジア東部を支配しますがアッシリアに退けられます。

前六百十二年、アッシリアが滅亡し、キンメリがスキタイに征服されます。キンメリの一部は外蒙古に逃れ匈奴になります。

前六百八年、ナボポラッサル(新バビロニア建国者)がウラルトゥに進軍します。

前五百八十五年頃、ウラルトゥの北方から印欧語族のアルメニア人が侵入し、首都ティシェバーナが陥落します。

前五百九十三年、ウラルトゥとマンナイ、スキティアと共にバビロンを攻撃しますが敗れます。ウラルトゥはシルクロードに亡命します。東遷の旅の始まりです。そして伯族と呼ばれます。

「ウガヤフキアエズ」2

 前八百五十六年、アッシリア王シャルマネサルはウラルトゥに侵攻し初代王アマテルを追放します。

 前八百四十九年、ウラルトゥの二代王シャルドウリシュ一世は国力を回復しヴァン湖畔の岩上に築城して、トプラク・カーレ碑文を作ります。日本史ではオシホミミと記しています。

 前八百三十三年、アッシリア王シャルマネサルが将軍ダイアンアッシュールにウラルトゥを伐たせるも失敗します。

 前八百十七年、ウラルトゥ三代王イシュプイニッシュが即位します。日本史ではニニギノ命と記しています。

 前八百十~七百八十一年、ウラルトゥ四代で英王と言われたメヌアッシュは南方を攻略しトプラグ・カーレに運河を作ります。日本史ではホホデミノ命と記しています。

 前八百十~七百八十三年、アッシリアにアダドニラリー三世が在位し、二回に亘りウラルトゥを伐ち、ヴァン地方を確保し、さらにエラム人を率いてバクトリアを伐ちます。

 前七百八十一~七百七十六年、アッシリア王シャルマネサル四世が在位します。この時、ウラルトゥ王アルギシュテッシュ一世はアラクセス川の平野に攻め入り、西はハッティからマラティアまで、東はペルシアシュを伐ち、その末年にはシリアを親政します。アッシリアは将軍シャマシュイルにウラルトゥを伐たせますが失敗します。アッシリア王シャルマネサル四世は戦死します。

「宮下文書」はウラルトゥ王アルギシュテッシュ一世をウガヤ初代王とし、この時代をウガヤ初代王の征戦と記しています。

 前七百五十四~七百四十五年、アッシリア王アッシュールニラーリ五世在位します。「宮下文書」はウガヤ二代王シャルトウリシュ二世は王兄が水難で死んだため、代って即位したとあります。ウラルトゥ側が戦いに敗れたことを示しています。

 前七百四十四~七百二十七年、ウガヤ二代王シャルトウリシュ二世はメディア人の地パルスアッシュを併せ、北シリアに侵入し「シュラウシュ(シリア)の王」と称します。

 アッシリアはシリアのアルパドを攻撃し、北上してクンムク国の戦いでウガヤ軍を破ります。

 前七百四十一年、アッシリアは三年の包囲戦ののちアルパトを落とします。

 前七百四十年、アッシリアはクンムク、クエ、カルケミシュ、ダマスコスおよびテュロス王の朝貢を受けます。ウラルトゥはシリアを失います。

「ウガヤフキアエズ」

日本書紀巻第三、神武天皇の記述に神日本磐余(かむやまといわれひこ)天皇の諱(実名)は彦火火出見(ひこほほでみ)といい、鸕鷀草葺不合(ウガヤフキアエズ)尊の第四子である。とありますが「神皇紀」「上記」「竹内文書」「九鬼神伝全書」では「ウガヤフキアエズ」は個人名ではなく王朝名になっています。

「神皇紀」では五十一代、「上記」「竹内文書」では七十三代とあります。これは、白村江の戦いに勝利した唐・新羅連合が北九州に進駐した後、新羅が大和に単独政権の樹立に成功し奈良朝廷を立ち上げ、唐に国家設立趣意書として日本書紀の提出に当たり漢・唐の歴史より古くならないよう、北九州先着エビス王家の東表国を消し去り、その建国時期に合わせるためウガヤフキアエズ王朝を一代にし個人名としました。以下、ウガヤ王朝と記述します。

 ウガヤ王朝の始まりは前九世紀頃、ウラルトゥ王国がコーカサス、アルメニア、トルコのヴァン湖周辺を支配し隣国アッシリアと対抗したのが揺籃期です。前六百九年アッシリアが滅亡したあとも生き残って、前七世紀の初め頃キンメリと同盟します。

 ウラルトゥ王国はメソポタミアで前十九世紀頃、バビロン第一王朝が始まり、前十一世紀頃イシン王国の末期にニギハヤヒ王朝の礎となる海の王国のマカンがフェニキア人とヒッタイト人の混血したアラム人のウラルトゥがアッシリアと戦い、初め勝利するもアッシリア王シャルマネサル二世の攻撃でイシン王国が滅びニギハヤヒ族は海に浮かび、ウラルトゥは北方のトルコのヴァン湖周辺に退きました。

 ウラルトゥ王朝の初代王はアマテルという男王です(前八百八十年頃)。日本書紀はこれを神話時代の天照大神という女神に換えています。

  「壱与」

  『契丹北倭記』の宗女壱与

 『洲鮮記』(フェニキア系諸国の新史)に曰く、

「乃ちここに辰の墟を訪う、娜たるかの逸豫台米、民率とともに未合(みまな)と為る。空山に鵑叫んで、風江星令たり。駕してここにその東藩をみるに、封焉(おおい)なる彼の丘。知らず、これ誰なるお。行(みち)に弔人なく、秦城寂として存す。ああ秦迂氏の殷。今将にいづくにあらんとするや。茫々たる萬古詞諓の感、またそぞろに真人の興るをまつのみ」。

 訳すと、以下のようになります。

「すなわち、辰国の遺跡を訪ねてこの故地に来た。風にも折れるかのような宗女壱与は、人民と共に王城任那を建てた。人なき山に鵑が叫び、風は入江をよぎって星は冷たい。駕してここにかっての東大国(任那の東潘である辰韓の地を訪れて)観るに、彼方の大丘にはいま何人があるのか。秦城のあとは黙して語らず、道には往古を偲ぶ弔人もいない。ああ辰迂殷の後継者たる辰王国はあとかたもなく、往時は茫々として歳月は去り、またそぞろに興国の真人を待つばかりである」。

『倭人興亡史』には「宗女イヨが辰国の故地を訪れた」とあります。綏靖妃イヨのことです、綏靖の子・安寧とともに南朝鮮に移動して、狗奴国の孝霊水軍と戦ったことになります。すなわち、このとき壱与は王族たちを率いて、倭人諸国の祭祀センター=任那(対馬・厳原)に移っていたのです。

 公孫氏(大物主王家)の宗女壱与は卑弥呼が亡くなり邪馬壱国女王となり、ウガヤ王家神武の次男綏靖に嫁ぎ安寧を生み任那(対馬)で倭大王に就位します。ウガヤ王朝(天皇家系)にフェニキア系の公孫氏のピースが嵌め込まれます。

「卑弥呼・邪馬壱国」3

 二二〇年、中国では曹操の死によって、曹丕が皇帝となり魏朝が建てられ、後漢の滅亡によって「三国時代」が始まります。

 二二一年、遼東に残留した公孫氏では公孫康の弟・恭(建御名方命)が即位します。二二八年、公孫恭が死亡し、燕王として康の子・淵が即位します。

 二三四年、神倭イワレヒコ・伊都国王=神武天皇が崩御します(享年六十六歳)。神武の死後、一大卒の地位をめぐって、再び「倭の大乱」が起こりますが、伊都国(筑紫)、多婆羅国(肥後)、安羅国(薩摩・日向)及び東表国(宇佐)の諸王が図って倭人連合の「邪馬壱国」を建国し、神武王妃の卑弥呼(公孫度の宗女)を女王に推戴します。そこで、卑弥呼(この時四十六歳)は神武と先妻アヒラツ姫(実は卑弥呼の妹)との間の王子・タギシミミ(季父)を伯済国から呼び寄せて夫婿とし、都を安羅国の首都・西都原に定め君臨します。

 二三八年、魏の司馬懿仲達が公孫淵を殺し、燕国を滅ぼします。二三九年、故地、故国を滅ぼされた卑弥呼は魏に朝貢します。魏は卑弥呼を「親魏倭王」とします。二四三年、卑弥呼は再び魏に朝貢し「邪馬壱国・倭国大王」の地位を公認させます。

「魏志」倭人伝は「女王の名は卑弥呼といい、鬼道に仕え、よく人心を惑わしている」と記します。当時の東アジアの国々では卑弥呼は最も優れた鬼道のシャーマンとして尊敬されていました。

 二四七年、卑弥呼は神武の博多侵攻の折り、委奴国王・大国主命を支援した沖縄の狗奴国王・長髄彦との戦いを始めます。二四八年、狗奴国王との戦いの中に崩御します(享年六十一歳)。直ちに、公孫氏の宗女・壱与(当年十三歳)が即位します。

 卑弥呼の陵墓は大きな冢(円墳)です。イカッサル族の手によって西都原古墳群に建てられ、男佐穂塚古墳として現存しています。この古墳の円墳部分は直径百二十八メートル、高さ十八メートルの四段式円墳でしたが、明治時代に偽史シンジケートにより二十四メートルのクビレ部分と六十七メートルの変な尻尾を付けられ変形の前方後円墳に改竄されます。