飛鳥に春が訪れ、比呂仁和の王宮敷島宮が建てられ、学校も整い、豪族の子弟が集めら、ヘレニズムに止まらず、ありとあらゆる勉学が進められた。アレキサンダー大王の戦術、ギリシャ文化、神話、哲学。シュメールの天文学。フェニキアの航海術。ヒッタイトの製鉄技術。インドの造船技術。ペルシャ文化、医療。高句麗の土木技術。バンチェンの灌漑農業。ヘブライの養蚕、製糸、染織、機織り等々。豪族の子弟の中には紀氏、吉備氏等の地方豪族も含まれていた。中でも紀氏は熱心であった。
ある日、礼尾たちがシメオン族の修史官から秦帝国の興亡を教わっていた。
「わが祖、バクトリアのディオドトス王はアレキサンダー大王の夢を継ぎ中国に侵攻いたしました。その頃は殷とか周と呼ばれますが、実態はアッシリアの流刑地であり、カルディアなどの植民地でありました。華北にはトルコのヴァン湖から東遷したウラルトゥ族が建てた大扶余があり、華南にはアラビア海の海人カルディア人が作った製鉄基地、菀の徐がありました。その他、鮮卑、匈奴、羯、氐、羌など多数の部族が割拠していました。ディオドトス王はそれらの部族国家を中原から一掃して秦帝国を打ち立て、始皇帝に即位しました」
礼尾が呟くように、
「ということは、漢王朝の漢民族は影も形も無かった訳だ」
修史官は、
「そうです、我々ヘブライの民とミャオ族やチュルク族が混血し、新たな部族が興り、秦帝国の崩壊が権力の空白を創出し。そこに、それらの部族が国家を作ったのです。漢民族も漢王朝も我らが作ったことになります」
礼尾が更に、
「今ある倭人諸国の多くはその時、辺境に追いやられた支配者達の末裔ということか」
修史官は、
「そうです、華北の大扶余は満州に移り北扶余を建て、河南の菀の徐も遼河の東へ移動し徐珂殷を建国しました。殷、周の地は倭人諸国の集合体とも言えます」
それから、飛鳥の地に十五を数える春秋が訪れました。東漢氏の比呂仁和が王に就いた秦王国は織物業や巨大土木事業、新田開発などにより大きく発展し、東日流の荒吐五王国などとも友好関係を結び、ヘレニズム文化の導入、国造制を施行する律令国家としても成長しました。しかしながら、比呂仁和の王宮は深い憂いに包まれます。
礼尾の寝所に家令が駆け込み、
「比呂仁和様が、お倒れになりました。至急、大王様の寝所にお越しください」
「直ぐに参る」
礼尾は直ちに身支度をし、父親の寝所に走った。
比呂仁和は寝台に横たえられ意識は混濁状態にあった。
「父上、礼尾です。礼尾です」
比呂仁和は薄っすらと目を開き、
「カゴメの歌が聞こえるのう。太子、跡継ぎは生まれたか」
「生まれております。上は十五になり、三人とも大きくなりました」
「そうであったな、もう安心じゃ。筑紫の奪還は頼んだぞ」
「父上、次郎と三郎も参りました」
「父上。次郎です」
「父上。三郎です」
「次郎も、三郎も頼むぞ」
比呂仁和は安心した様に目を閉じた。
医師が脈を取り、首を横に振り、
「崩御されました」
飛鳥の広大な館の群れに悲しみの波が拡がり、すすり泣く者、号泣する者、涙が溢れ飛鳥川の水嵩が増し、せせらぎの音が悲しみに唱和する様に聞こえていた。
直ちに殯の準備が始められ、礼尾は東漢氏の中で族長に推され、五十日忌に招集された豪族会議で大王位に推挙された。
百日忌が近づく頃、石工頭が礼尾に拝謁し、
「比呂仁和様の陵墓の適地を見定めましたので、ご検分戴きたく存じます」
「おう、見付かったか、どこじゃ」
「飛鳥川の上流で冬野側と稲渕川が合流する島の庄の南の地点でございます」
「直ぐに見よう、案内致せ」
島の庄の南、飛鳥川の上流二川が合流する地点近くの小高い地に立った礼尾は、
「良き所じゃ、東漢の総力を挙げて陵墓を作ろうぞ、絵図面を早々に起こしてくれ」
「畏まりました」