「日出処の天子」20

 博多湾から上陸した足庭達は掃討巡察を開始し、安羅大伴王家が脱出し空っぽになった春日の王宮を接収し筑紫の本営とした。直ちに、他の上陸部隊に伝令を出し、状況連絡を求めた。翌日には、弾の末盧上陸部隊から返令が届いた。

「末盧国の久里にある無人の王宮を接収。沿岸の農民、菜畑の長と接触、鉄の農具類の提供を前提に、協力合力の了承を得た故、便宜供与を願いたい。末盧国の主力は脱出し有明海を目指し、少数の末盧衆が唐津湾を出て西へ向かったとの情報を得た故、掃討の必用もありうる。次の作戦司令の連絡を待つ」

 一日遅れで、遠賀川上陸部隊飛鳥隊の太郎から返令があり、二日遅れで豊前上陸部隊の東漢の太子から返令が届いた。何れも、然したる抵抗もなく占領接収を終えたとの報告であった。

 足庭は各部隊に引き続き地域の農民達に対する慰撫巡察を為し食糧確保、治安維持の任の継続を指示すると共に、筑紫平野の掃討作戦を発令した。

 博多平野から筑紫平野に抜ける、背振山地と三郡山地に挟まれた大宰府の南に前進基地を構築し、地上部隊主力軍の合流出発地とした。

 遠賀川上陸部隊から三輪隊と葛城隊に直方平野から三郡山地を越えての参集を指示。唐津上陸部隊からは坂上隊に末盧川沿いを遡り筑紫平野の西端から侵入を指示。博多上陸部隊からは、三郎の出雲隊に四百年前、磐余彦の北倭軍が辿った那珂川を遡り背振山地越え、吉野ヶ里の北から筑紫平野への侵入を指示した。

 豊前上陸部隊の蘇我隊と呉原隊には宇佐八幡から国東半島の付け根部を縦断し、杵築から重藤海岸の慰撫巡察を命じた。蘇我隊には中臣氏も参加しており、両氏は四百年振りの里帰りとなった。寒川隊、塩飽隊、直島隊には海上からの支援を命じた。

 足庭は弾の平群隊と東日流隊、河野隊と宗像隊には末盧半島を大回りして有明海に入り制海権を握るよう指示し、途中、末盧衆などの掃討若しくは慰撫も併せて命じた。

 足庭は筑紫平野掃討作戦を発令した七日後、大宰府の南に築いた前進基地から、参集した三輪隊、葛城隊と共に筑紫平野の侵攻を開始した。三輪氏の故郷、三輪は指呼の距離あった。

 カゴメ紋の幡を掲げた、足庭達の主力部隊が南下すると直ぐに三輪の里に白い旗が掲げられ、カゴメ紋と月と星の幡印も掲げられた。三輪の太子が、

「大王様、我らイカッサルの紋章、月と星印です。残留して生き残った者達が歓迎しております」

 足庭は、

「幸先が良いのう。三輪殿、月と星印の紋章を掲げて進んで下され」

 互いに声が届く位置に来て、三輪の太子が、

「我等、秦王国改め俀国の連合軍でござる。我は三輪の太子でござる」

 その音声に、三輪の里から、

「よくぞ、お帰りになられた」。歓迎いたしまする」

 足庭達は三輪の里に兵站の合力を頼み、農具の供給を約して、筑紫平野を南から西へ向きを変え、東漢本隊を中央に右に壬生隊、川原隊、左に三輪隊、葛城隊の五縦列で進むと共に大伴王家の反撃に備え物見隊を三輪より東に位置する日田への入り口に置いた。

 足庭達が鳥栖の里に掛かり農民の懐柔説得に成功し野営の準備に入る頃、背振山地沿いに出した斥候が戻り、吉野ヶ里の後背の坂本峠に三郎の出雲隊が到着したことを報告した。

 足庭の主力部隊は翌早朝、更に西に向かい吉野ヶ里集落の南側に展開しカゴメ紋の幡を一斉に掲げた。呼応して北側の背振山地に展開した三郎の出雲隊も一斉にカゴメ紋の幡を掲げた。暫くして吉野ヶ里の集落内に白い旗とカゴメ紋の幡と剣と盾を描いたシメオンの幡が掲げられた。

 足庭は身狭隊の隊長に音声を上げさせると、集落内から歓声と応諾があり開門された。

 足庭達は集落内に入り、長に声を掛けた。

「長殿、よくぞ持ち堪えられた」

「いや、安羅の兵は急いで通り過ぎた故、何もせなんだ」

「ところで、長殿の先祖は初代の大国主様の頃に渡来されたのかな」

「そうでござる、秦帝国が崩壊してシメオン族が漂流の民となり半島を南下しきった時、東表国のエビス王家から、この吉野ヶ里の割譲を受け渡来し、大国主様を推戴し委奴国を建国したと伝え聞き、江南に避難していたシメオンの王族と一緒に我ら江南の苗族は吉野ヶ里に渡って参ったと伝えられておりまする」

「それから、七百年の長きに渡り、この吉野ヶ里を維持された」

「言い伝えによれば、この吉野ヶ里が北倭軍と公孫軍に挟撃され委奴国の人々は三年間、勇敢に戦いましたが初代の大国主様が磐余彦の北倭軍の流れ矢に当り、亡くなられて委奴国の人々は戦意を喪失し、土師氏達は志賀島から日本海を出雲に向かい、二代様は瀬戸内を東遷されたそうじゃ」

「その後はどうなりました」

「勝利した磐余彦の北倭軍は長躯して肥後の多婆羅国のニギハヤヒ軍団に挑み、戦いに敗れるも東表国の仲介で同盟した後、磐余彦は博多に伊都国を建国し、公孫氏の宗女の卑弥呼を後妻に迎えたそうじゃ。その後、磐余彦が亡くなり、大乱になり掛けましたが、諸国の王が図り邪馬壱国を建国し卑弥呼を女王に推戴したそうじゃ。卑弥呼は狗奴国との戦いに追われる中、亡くなり、宗女の壱与が直ちに即位し、狗奴国との戦いを避け、対馬に渡り、倭人諸国の祭祀地、任那を建てたそうじゃ」

「その後の倭人諸国の動向は我らも聞いておりまする。長殿、何かお困りのことがありませぬか」

「鍬や鋤などの鉄の農具の入手が難しくなり頭を痛めておりまする」

「何処も、その様じゃ、我ら俀国は総力を上げて鉄の農具の供給を果たします故、我等に協力下され、兵站への合力を頼みまする」