博多湾を廻る棚田の畔に菜の花が咲き乱れ、玄界灘を南風が吹き渡る頃、足庭は第二回遣隋使を博多那の津から出立させた。
船団は宗像船の先導で壱岐、対馬を経由し半島西岸を北上、百済、高句麗沿岸を船泊しながら進み、遼東半島沿いを西に向かい、山東半島との間を抜け渤海湾から黄河に入り遡上した。文帝、煬帝が開削した大運河は隋都大興城までの船旅を可能にしていた。
大興城に入った使節団は都を貫く朱雀大路を北に進み、東側を仏教寺院、西側を道教の幻都観が建ち並ぶ街区を抜け宮殿に昇り、国書を提出した。官吏は国書を取次ぎ煬帝の側近が読み上げ始めた、
「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」
煬帝が顔を歪め、
「東海の野蛮国が天子を名乗るとは、身の程知らずめ、まあ良い使者に要件を聞け」
官吏が使者に用向きを述べさせると、
「開西の菩薩天子重ねて仏法を興さると聞き、故に遣わして拝聴せしめ、兼ねて沙門数十人来たりて仏法を学ばんとす」
更に使者は、高句麗や琉球との親交を伝え親善国としての立ち位置を述べた。
煬帝は使者を下がらせて、従八品で文林郎の裴清を呼び寄せ、
「高句麗が片付いたら俀国を討伐する。俀国に疾く赴き国情を具に偵察し、速やかに報告せよ」