春日の王宮に担ぎ込まれた足庭は既に絶命しており、太子と三郎は直ぐに九州撤収を決断し手配りを始めた。その頃、博多港に各地から増援部隊の兵を乗せた軍船が到着しており、足庭の亡骸の搬送と春日の王宮の撤収に掛かると共に、新着の兵を筑紫平野の戦線に送り込み殿戦を委ね、久留米の戦線から順次、兵を引かせ大宰府と春日の王宮の手前で後退を止め、停戦協議に入った。双方の人的被害を最小限に抑え、各地の柵の住民の平穏を図るため、食料や春日の王宮の財宝は残置した。
玄界灘の制海権は握ったまま、最後の部隊の撤収まで全力を尽くし、足庭の亡骸は大型の軍船で柳井水道の王宮に搬送、太子も別の軍船で柳井水道を目指した。
筑紫平野と春日の王宮を奪還した倭国、額田王は軍船を持たず俀国兵を追わず倭国内の鎮圧に専念した。
柳井水道、奈良島に帰り着いた足庭の亡骸は太子ミチタリの手で殯がなされ、後宮の立后女御女官の悲しみに包みこまれた。
太子ミチタリは足庭の殯を三郎叔父に委ね、大和飛鳥に帰還し東漢の族長に就任し、族長会議に臨んだ。
蘇我氏の族長に就任していた鞍長が、
「殿戦を大過なく勤められたミチタリ殿が大王に適任と存ずる」
弾に代わり西漢の族長を継いでいた息子の陣が、
「我もミチタリ殿を推挙いたす」
春日の長が、
「ミチタリ殿は温厚で、既に子息が二人居り聡明じゃとか、問題あるまい」
他の族長達も口々に賛意を唱え、河勝は
「皆様の意見は賜った。族長会議はミチタリ殿を大王に推挙いたす」
大王就任を受託したミチタリは、
「都を柳井水道から此処、飛鳥の地に戻すと共に、国の名前も俀国から秦王国に戻します。我は道庭と改名いたします。皆様、宜しくお願い致します」