「日出処の天子」62

 坂上が、

「此処からはイスラエル十二部族個別の状況を話していきましょう。まずは秦王国の主人公・大国主命のシメオン族から始めよう」

 伊集院が、

「シメオン族から始めます。南朝ユダ王国に属し、碧眼で鷲鼻が特徴です。日本の皇室の三笠宮を代表に、その特徴が残っています。この部族は幸運にも度重なるアッシリア等の周辺諸国の暴虐、拉致からも故地に戻れました。ペルシャの支配下に入っている時にアレクサンダー大王が東征を開始しペルシャを滅ぼし、その東征に従軍しました。帰還後は総督の地位を得ており、バクトリアの地に秦王国を建国しました。百年後、その地の知事ディオドトスが亡きアレクサンダー大王の遺志を継ぎ殷の地に侵攻、圧倒的な軍事力で中原の倭人諸国を駆逐し秦帝国を建国し始皇帝に就任します。それまでの中国内の国家とはかけ離れた政策で統治します。自らのアイデンティティを確立するために偽史を編み焚書を行い、反抗する者を生き埋めにした、焚書坑儒事件を起こします。焚書坑儒事件から逃げ出したガド族達は半島に向かい、その後、北九州に渡ります。始皇帝の政権は短期に終了し、始皇帝の死と共に秦帝国は崩壊しシメオンの遺人達は遼東に向かい公孫氏に合流していましたが、東表国から吉野ヶ里の地の割譲を受けガド族を追う様に北九州に渡来し、BC七十四年吉野ヶ里の地で委奴国を建国します。これを伝え聞いた南越の秦王が率いる苗族達も合流します。国力を付けた委奴国は博多のガド族の王宮を急襲し駆逐し博多に遷都します。AD二百四十年、扶余伯族イワレヒコ達が北九州に侵攻し戦いに敗れたシメオン族は東遷を始め一隊は出雲王国に侵攻しガド族を駆逐し、本隊は大和に侵入しガド族の東鯷国を破り纏向に秦王国を建国します。博多からの移動の際「委奴国の金印」を紛失しますが江戸時代になって志賀島の畑から発見されます。新羅占領政権の奈良朝の時、鹿島の扶桑国でシメオン族の族長になっていた不比等が中臣氏の仲介で朝廷に上がり、ガド族津守氏の娘宮子と結婚し八百年続いたガド族との抗争に終止符を打ち、宮廷内で頭角を現し宮子と二人三脚で聖武政権を誕生させ、後の藤原政権の基礎を築きます。紋章は剣と盾のデザインです。藤原、西園寺、鈴木、加藤、竹中、西村、黒田、柳沢などの姓を持つ人達はこの系統と言われています」