筑紫敗戦の反省もあり、秦王国の族長会議は定期的に開催されるようになっていた。
東漢と西漢を中心とした体制から、太秦の泰氏や蘇我氏の台頭が著しい状況になり、次の大王位は東漢の一存では決めさせない雰囲気が醸成されていた。
太秦の族長に就任していた継手が、
「上宮様は文に偏る嫌いが見え、弟宮様は武に秀でて居られるようじゃ。聞くところによれば、新羅が印度の騎士団を傭兵部隊に受け入れ、軍事国家として領土拡大政策を始めたとか、半島は争乱の様相が深くなり、何れ我が列島に影響を及ぼすかも知れん。道庭殿、弟宮様を後継に据えられたら如何じゃ」
それから、太秦の秦氏達の上宮苛めが陰湿に始められた。
上宮の乳母を務めていた土師氏の族長は高齢のため身罷り、足庭の弟の三郎叔父も鬼籍に入り道庭の良き協力者はいなくなっていた。
道庭自身は新規干拓地の開発、河川の改修、足庭と弾の陵墓造り、檜隈の工人の督励、養蚕業の育成等々多忙を極めていた。
上宮聖徳は干食王妃との間に三人の子を設けていたが、度重なる太秦達の嫌がらせに苦悩し、太秦々氏の支援を受けた弟宮との王権争いに敗れ仁王元年(623年)十一月二十二日王妃と共に刀で自害した。
突然の上宮の死に道庭は悔恨の淵に立つも、大急ぎでレビ族の総力を挙げて、斑鳩の上宮邸や足庭の供養寺の西方至近に円墳の陵墓を造り王妃の遺体と共に懇篤に葬った。道庭が上宮に与えた高句麗渡来の華麗な馬具も一緒に埋葬された。
大和盆地を揺るがす不祥事に驚愕した太秦の秦氏は慰霊のため太秦に広隆寺を建て毎年十一月二十二日の命日に火焚祭の法要を行い慰霊している。