「上宮聖徳」13

 令和元年五月、上雉大古代史サークルOB四人組は明日香に入り小山田古墳を見ようとするが学校敷地内のため見学不可。西園寺が、

「小山田古墳の見学は諦めよう、斑鳩に行って若草伽藍跡地と藤ノ木古墳をみようや」

 皆で車に乗込み、島津が、

「藤ノ木古墳は1987年に石棺が開けられ、二つの遺体が確認されているんだ。北側が玉縲の太刀や馬具等豪華な副葬品を携えた上宮聖徳で南側の遺体が装身具を付けた干食王妃ホキキノイラツメなんだ」

 美佳が、

「だけど、偽史シンジケートの意を承けた四人ほどの考古学マニアの学生の手で若い男性二人の遺体にすり替えられたのよ」

 香苗が、

「骨考古学者が1993年被葬者は若い男性二人と発表したため、考古学者の間では蘇我馬子に同時に暗殺された穴穂部皇子と宅部皇子とする説が有力になったんだけど、この世に存在しない人に殺された遺体もありえないわね」

 車で斑鳩に移動した四人が法隆寺に到着、西園寺が、

「法隆寺の釈迦三尊像に光背金石文があるんだが、法隆寺創建当時のものではなく、日本書紀、古事記が成立した後に作られていて、上宮聖徳=聖徳太子を創出するための造文なんだ」

 美佳が、持参の読み下し文を読む。

「法興元三十一年、歳次辛巳(西暦621年)十二月、鬼前太后崩ず。明年(西暦622年)正月二十二日、上宮法皇、枕病して余からず、干食王妃、仍りてもって労疾し並びに床に諸く。時に王后王子等及び諸臣と与に、深く愁毒を懐き、共に発願仰いで仰いで三宝に依り、当に釈像を造るべし。尺寸の王身、この願力を蒙り、病を転じ、寿を延べ、世間に安住せんことを。若し是れ定業にしてもって世に背けば、往ききて浄土に登り、早く妙果に登らんことを」と。二月二十一日、癸酉、王后即世す。翌日(二月二十二日)、法皇、登遐(崩御)す。癸未(西暦623年)三月中、願の如く、釈迦尊像並び挟侍及び荘厳の具を鋳造し竟る。斯の微福に乗ずる、信道の知識、現在安穏にして、生を出で死に入り、三主に随奉し、三宝を紹隆して、ついに彼岸を共にせん。六道に普遍する、法界の含識、苦縁を脱するを得て同じく菩提に趣かん。使司馬・鞍首・止利仏師、造る。」

 香苗が、

「秦氏の氏寺、広隆寺では上宮夫妻が自害した十一月二十二日に供養のための火焚祭の法要を執り行い、法隆寺では金石文にある二月二十二日を命日として聖徳太子の御火焚祭を営み成り済ましを企図しているのよ」

 島津が、

「偽史シンジケートは徹底的に秦王国俀国を抹消し、日本書紀、古事記が真実であるとのプロパガンダを繰り広げていますね」

 西園寺が、

「プロト法隆寺が670年に落雷で焼失したと伝えられているが、上宮聖徳の痕跡を消してしまうための一環だったかもな。石舞台古墳、小山田古墳、プロト法隆寺等々広庭大王、アマタリシホコ、リカミタフリ、上宮聖徳と繋がるレビ族の事跡は全て抹消されたんだ」