六百五十五年五月、唐は高句麗に出兵するも不首尾。六百六十年、唐の高宗は百済に遠征軍を向けます。三月、戦争をするために生まれてきた男、蘇定方を遠征軍十万の大総督に任命します。八月、唐陸軍は百済の国都に迫り、唐の陸軍に遅れて新羅の水軍が参戦し熊津城が陥落、百済軍は敗走します。新羅王になっていた、金春秋の武烈王は自ら五万の大軍を率いて出陣し、百済軍を破ります。百済王義慈はあっけなく降伏します。王都泗泌城の王宮に残った、卑弥呼が率いた公孫氏フェニキア系イカッサル族と神武が率いたウガヤ王朝伯族の気位の高い官女三千人が辱めを受けるのを嫌い、錦江を望む絶壁から次々と身を投げます。その様子が鮮やかな花々が落ちていく様で、後に朱に染まった岩々が落花岩と名付けられます。降伏した義慈王は俘として献じられますが、唐の高宗は洛陽の則天門楼で受け、彼を釈放しました。蘇定方は転進して高句麗に向かいます。
百済王義慈の子、余豊璋は人質として倭国に滞在していましたが、周留城に立て籠もって唐に抵抗していた百済の遺臣、鬼室福信たちは使者を倭国に派遣し豊璋の送還と援軍を求めました。帰国した豊璋を得、倭国や高句麗の支援を受けて周留城を拠点にして連合軍と戦いますが、遺臣団に内紛が起き、国王に立てられていた豊璋が鬼室福信を殺害し、遺臣団の士気が低下します。
六百六十三年五月、唐と新羅の連合軍四十五万人は動揺する周留城の攻撃に向かいます。唐将は劉仁願、劉仁帰、孫仁師たちです。周留城は錦江下流の白江の沿岸にあります。倭国、秦王国、荒吐五王国などの寄せ集めの水軍凡そ三万人は海から白江に入り周留城に向かいます。唐海軍と遭遇し、数度に渡り海戦が起こりますが、倭国連合水軍は指揮官不在の烏合の衆、全て唐水軍が勝利し倭国連合水軍の数千艘は海の藻屑となります。唐軍は油を染み込ませた干草を倭軍の船に投げ込み、炎上させる戦法を取り、功を奏します。九月、唐と新羅の大軍勢が周留城を陥落させます。唐の侵攻作戦は百済の残党征伐が名目でしたが、唐は主な敵を高句麗と連合する倭国に置いていましたので、周留城に立て籠もっていた百済人全てを釈放しました。百済王豊璋は高句麗へ亡命したため、百済の要人達は次々と倭国へ亡命しました。それに倣って新羅も倭人二万人を放免します。