「白村江の戦い」5

 白村江の戦いに圧勝した唐と新羅の連合軍は六百六十四年五月、唐の鎮将・劉仁帰が率いる四千人、及び新羅の鎮将・金庾心が率いる四千人の計八千人で倭国に侵攻し、太宰府に筑紫都督府を構え列島の占領軍政を開始。金庾心は中臣氏の故地・宇佐八幡に引き連れてきた花郎軍団を駐留させ、九州倭国の睨みとします。

 一方、六百六十八年、唐と新羅の連合軍は漢城(平壌)を陥落させ、高句麗を滅亡させます。ところが、六百七十年六月、唐軍と高句麗復興軍が衝突したのを機に、新羅は朝鮮半島全体の征服を目論む唐と対立するようになり、両軍の間に戦いが起こり、六年間続きます。その間、新羅は高安勝を高句麗王とし金馬渚に王都を置いて戦います。

 六百七十二年、新羅は唐との協定を破り、百済の熊津都督府を陥落させます。その結果、百済の王侯貴族、武士、軍属ら四万人が雪崩を打って倭国へ亡命しました。

 六百七十二年六月、占領軍総司令官の郭務悰は花郎軍団を率いて大和に侵攻します。迎え撃った東漢氏レビ族を中心とした秦王国軍は一ヶ月間も勇敢に戦いますが、シメオン族秦氏等の諸部族は花郎軍団の統率の取れた戦いぶりを見て、この戦の無意味さを悟り、一斉に寝返り新羅軍に降伏したため、王家の軍は孤立し総崩れします。降伏した豪族達は新羅側の軍政に協力します。最後まで王家に忠誠を尽くした機織部の秦氏、ダン族、蘇我氏等は秦王国分国地の関東に逃散し鹿島神宮や静神社の機織部領域付近や、蘇我、行徳、及び秦野付近に逼塞散居します。

 レビ族である郭務悰は東漢氏レビ族の秦王国王家の残留者と話し合い、東漢氏の生命はレビ第三代迄の大王墓の解体を条件に守る事で決着させます。

 六百七十三年二月、飛鳥浄御原に「新羅総督府」が樹立されます。その後、新羅の王子達がブレーンを引き連れて進駐し「奈良総督府」になります。