「不比等」3

 六百八十年代、奈良朝廷を立ち上げた新羅占領政権は諸外国への体面上、国史編纂の必要に迫られ忍壁皇子、川島皇子等が編纂委員会を発足させます。高市皇子と郭務悰から不比等に編纂への参画を指示されます。編纂委員会と不比等の間で基本事項が協議され、奈良朝廷は大和に古くからあった。少なくとも東表国の建国に近い時期に九州から大和に東遷した。東表国、邪馬壱国、東鯷国、秦王国は存在しないこととする。各地に存在する王朝を縦に繋ぎ物語を展開する。新羅王がずっと奈良朝廷を維持する。

 それらを承けて不比等はシメオン族の偽史シンジケート集団を総動員して物語を紡いで往きました。神武東遷物語はシメオン族の二代目が九州から大和に東遷した史実に基づいて、大和に侵攻しガド族の東鯷国を打ち負かした物語をリアルに登場人物と時間を組み替えて作成します。

 大和入りした後は新羅史を下敷きに秦王国レビ族三代の大王の事跡を架空の蘇我三代に置き換え、新羅史の毗曇の乱を蹴鞠の出会いと入鹿殺しに翻案します。そして、文武天皇までの繋ぎに推古から持統を創作します。

 後世の文化人、淡海三船が天皇諡号を送っていますがユーモアたっぷりにシニカルに命名しています。持統天皇は統べるを持する。推古天皇は古を推し計る。継体天皇はウガヤ王朝と大伴王朝の国体を継ぐ、と付けています。

 京都産業大学教授で言語学者の森博達氏が「古代音韻と日本書紀の成立」という論考にたいし、言語学会から第二十回金田一京助賞が贈られています。それによると、日本書紀は最初「続守信」と「薩弘格」という唐人の大学音博士が書紀記述していましたが、二人が相次いで病死し「山田史御方」が一人で著述しますが、彼は唐に行ったことがなくて漢文を正しい唐音で読み書きする能力が無かったため倭習音による和化漢文で述作せざるを得なったのです。それらの研究により、いろんな事が明確になりました。推古は実在しない、その摂政の聖徳太子も存在しないと判断されました。