聖武天皇は病弱(セミノール病)であったため、実権は姉である光明子(皇后)が握り、大仏用の黄金を献上した陸奥守(百済王敬福)を内裏(代理)天皇にして政務を執らせていた。光明子と敬福の間に三人の子が生まれ、その長女(高野姫)を第四十六代孝謙天皇に即位させます。以来、日本の諸国に国分寺、国分尼寺を建立する勅命が出され各地に寺院・仏閣が建てられた。。
奈良東大寺の本尊・毘盧遮那仏(十五メートル/いわゆる奈良の大仏さん)の建造は従来の国史によれば、天平十三年(七百四十一年)第四十五代聖武天皇が信楽宮(滋賀県)で発願され、行基に大勧進を命じたためと伝えられているが、実際には唐・新羅占領軍(奈良総督府)の命令によるものであった。
当時の「日本国」という植民地行政において、国家財政を傾けるほどの大事業であった。”大仏の鋳造”は生易しいものではなく、聖武天皇の平城京還御によって、現在地に移されている。そして八度の改鋳(八回に及ぶ改修)を経て、ようやく天平勝報宝元年(七百四十九年)完成されたといわれている。当時の日本の人口は約五百万人と推定されるが、そのうちの約二百六十万人の喜捨(奉納金)を得て着工され、延べ人員八十万人の奴隷(倭人)を強制動員して作られた。
その二年後の七百五十一年には、金堂(金ぴかの大仏殿)も完成したので、翌七百五十二年聖武上皇・光明皇太后・孝謙天皇以下が臨御して開眼供養が営まれた。そして新羅僧良弁(華厳宗の第二祖)が初代別当に任命され、華厳宗総本山になった。なお、別に、大華厳寺・城大寺・総国分寺・金光明四天王護国之寺などの呼び名ある。こうして東大寺は日本仏教の中心となった。
東大寺の本尊・毘盧遮那仏は唐の三代皇帝高宗がモデルといわれ、天平勝報宝四年四月の奈良東大寺の「大仏開眼落成供養会」は唐・新羅占領軍及び天皇家(不比等・宮子のユダヤ王朝)のバラモン(神官・僧侶)、クシャトリア(ヤドウ族の花郎軍団)による「日本占領記念」式典の様相であった。
翌年の天平勝報宝五年(七百五十三年)正月、唐の学僧鑑真が来日し、律宗を伝えた。従来の「広辞苑」には「入唐僧栄叡らの請いにより暴風・失明などの苦難をおかして来日、東大寺に初めて戒壇を設け、聖武上皇以下に受戒。のちに戒律道場として唐招提寺を建立、大和上の号を賜うとある。
だが、大仏開眼供養会の翌年にタイミング良く唐僧・鑑真が来日し、金堂の前に戒壇を設け上皇天皇以下を受戒させ、勅命により戒壇院が建立されたというのは、いかにも手回しが良すぎたのではないか?以上を総合すると、淡海三船の撰述になる「唐大和上東征伝」の主題は鑑真一行渡海の経緯を述べることではなく、唐仏教界の日本への侵攻作戦、すなわち東征を語ることにあったと思われる。
日本にも、秦王国・俀国の時代から、貴族や僧侶受度・受戒の儀式が全くなかったわけではない。すでに「俀国」は法王・天子が治める国であった。
しかし、鑑真の来朝で達成されたことは、中国・大乗仏教の正式な常設戒壇院の設置と外来僧十師を揃えた受戒の儀式、ならびにその組織の確立という点にあった。
彼らの一大プロジェクトを組んでの戒律伝道の行為は、唐王朝の命令と新羅奈良朝廷の要請によるものであったと見て間違いないであろう。
しかしながら、新羅本国政府は六百九十八年の渤海国(実は後高句麗国)の建国対策に追われ忙しく、植民地日本の政情を子細に検討する余裕がなくなります。その後、急速に日本への影響力を失い、やがて衰退し滅びます。そしてウガヤ王朝末裔の桓武天皇が平安京に都を移し藤原氏が中心の絢爛華麗な貴族社会となる平安時代が始まります。