「渤海・契丹」6

『唐書』列伝契丹によれば「契丹はもと東湖種」とあり。契丹族は東湖の末であるが、『倭人興亡史』は東湖とは箕子朝鮮であるとしている。契丹は秦漢のとき、匈奴に破られるも鮮卑山の地を保った。三国-魏の青龍中、その酋長阿比能が魏に殺されて衰微したが後魏に至り、契丹と号して漢水の南、黄龍の北を保った。唐の時、分かれて八部となり、部の長を大人といった。高梁の時、耶律阿保機が八部をあわせ、庫莫奚及び渤海を破り、室韋・女真を侵し、また突厥の地を奪い、今の蒙古・東三省・熱河省・綏西省、及び河北省の北部の地を有し、勢い強大となった。後晋の時、国号を遼と改めたが、のち、女真の金氏に滅ぼされた。

 再び倭人興亡史に戻り、第二十~第三十九章までは、「賁弥国氏州鑑」賛が中心で『史記』の三皇五帝時代から夏殷を経て、満州にあった箕子朝鮮の歴史を中心として記録し、さらに河南省南陽(苑)の除氏という一族が満州に亡命して建てた除珂殷、すなわち中国史の穢国にふれ、ついで匈奴にふれたあと、箕子朝鮮が燕人衛満の偽計によって滅んだのち、その上将卓が馬韓の月支国に亡命してたてた辰国の歴史を記録し、第四十章は『州鮮記』によって邪馬壱国の宗女壱与の任那建国を述べている。

 第三十七章は辰国の卓王の姓を賁弥氏と書いているが、本書の歴史部分の殆んどが『賁弥国氏州鑑』であり、しかもその前史を意味する「鑑」である。このことは、契丹民族が賁弥氏の子孫だと主張していると考えて良い、すなわち殷と箕子朝鮮の王家が賁弥氏で、従って月支国の辰王卓も賁弥氏、邪馬壱国の卑弥呼と壱与も賁弥氏、そして契丹王家の耶律部も賁弥氏ということである。

 いったい、卑弥呼の名について、学者はフイミョウと読むなどと論じながら、それがどんな意味を持つか論じなかった。卑弥呼、賁弥氏、賁弥国氏は同じ意味ではないだろうか。

 「賁弥国氏」の「国」は第二十八章の「督坑賁国密矩(とこひこみこ)」とおなじく表音であって、通じてフェニキア氏ということになり「卑弥呼」と「賁弥国」は同じ意味だったのである。

 従って『賁弥国氏州鑑』はフェニキア族国家の前史ということだ『州鮮記』とはフェニキア族国家新史ということになる。フェニキア人は自分達の歴史を書かないことで有名な民族だったから、フェニキア人の史書が存在するということは、実に世界史の中でも希有なことである。