満州にあった北扶余前期王朝は神武に繋がるウガヤ王朝で中国史では伯族と称され、その後を襲った後期王朝はニギハヤヒ王朝で中国史では穢族と称されています。併せて穢伯と呼ばれました。
「天神本記」の有名なくだりに、
天照大神皇太子尊に謂って曰く。「豊葦原千秋長瑞穂国は、乃ち吾が皇太子・正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊のまさに以て知るべきの地なり。爾皇子宜しく往きて之を知るべし」と。
此れ、日嫡を以て吾が国主と為すを説くの元なり。
皇太子尊、巳に詔命を奉じて天を降るの時高皇産霊尊の女……を以て、皇妃となし、而して天照地照天火明梳玉饒速日尊を生む。
天照大神、乃ち饒速日尊に天璽瑞宝十宝を賜う。……乃ち三十二神をして供奉して之を衛護せしむ。
※三十二神記載省略、二十五部の記載省略。
此れ、君行き臣従ふを説くの元なり。
饒速日尊、巳に天照大神の詔を奉じ、乃ち天の磐船に乗りて太虚空を翔け、以て此の国を巡視して河内国河上の哮峯に降り、乃ち曰く。「虚空所見日本国はこれか」と。
然して後に大和国鳥見白庭山に遷る。
とあり、ウガヤ王朝が陸のシルクロードを東遷し満州北扶余に到達し、ニギハヤヒ王朝が海のシルクロードを東遷し各地の部族を従え列島に至った歴史を反映している。
北倭記・三十一章 除珂殷おこる
「是よりさき、宛の除、海を濟り、舶臻し、殷に倚り、宛難に居り、地を闢くこと數百千里、弦牟達に築き、昆莫城と稱し、國を徐珂殷と號す」
解
「これよりさき、(河南省の製鉄部族)宛の徐(※ニギハヤヒ族)氏が船団を組み、海を渡り、箕子朝鮮を頼り、塔子河流域にいて数百千里の地を開いた、そして魔天嶺に城を作ってコマ城と称し、国をシャカ殷(シャキイ族の殷)と名づけた(これが中国史の穢国である)」