「ニギハヤヒ」6

 二~三世紀の極東は秦の始皇帝の盛衰と漢の勃興、高句麗の隆盛から倭人諸国の南下、南征が続き倭の大乱の様相見せます。

 AD百六十五年、東表国エビス王の海部知男尊が高句麗を攻め次大王を殺した。そのため高句麗王には新大王・伯固が即位し膨張政策を強めます。

 AD百九十七年、東扶余王の罽須(後の神武)は遼東の公孫康を破るも、その後、和睦し罽須は公孫度(大物主尊)の次女アラツヒメを娶り、公孫康は罽須の妹武熾姫を娶り義兄弟になり、南征の途に就きます。

 AD二百四年、北扶余後期王朝のニギハヤヒ尊がマラ族とモン族と白丁隼人等を率いてアマツマラが船長の天の鳥船に乗り、みたび大船団を組んで清津港を出発し遙々渡海しバカン(熊本港)に入り陜夫が建てた多婆羅国に参入します。

 AD二百十年、高句麗の発岐王は立志して五瀬尊を名乗りウガヤ王罽須と共に「北倭」を率い南下を始め、九州博多に橋頭堡を築きます。この時、罽須と同盟していた公孫康(事代主命)もチャム人を率い九州に渡来し日向西都原に投馬国を建国します。

 罽須は博多の橋頭堡から、公孫康は南方の有明海から上陸し、相呼応して吉野ヶ里委奴国の大国主命を挟撃し、AD二百十三年に大国主命を戦死させ委奴国を滅ぼします。罽須と公孫康は連合してさらに南下し、ニギハヤヒの多婆羅国を攻め敗北するも、東表国エビス王の仲裁で和睦します。

 ニギハヤヒ命は「十種神宝」を奉呈し、余(アグリ)姓を譲渡します。「十種神宝」の奉呈は王権の禅譲を意味し、以後「三種神器」による天皇譲位の儀式に繋がります。