一八九年、東扶余王の罽須(後の神武)は遼東から朝鮮半島に進出し始めた公孫氏と戦い勝利を得ます。負けた公孫度(大物主命)は卑弥呼の妹、アヒラツ姫を罽須に嫁がせ、息子の公孫康(事代主命)には罽須の妹、武熾姫を娶らせ、クロス対婚関係を作り同盟を結びます。後にアヒラツ姫が亡くなり、姉の卑弥呼が神武の後妻に入り、同盟を強化します。
二〇四年、燕王・公孫度が崩御し長男・公孫康が燕王に即位します。二〇五年、公孫康は楽浪郡南部を分割し帯方郡を設けます。
二一〇年、高句麗・発岐王は内紛もあり五瀬命と名乗り、東扶余のウガヤ王・罽須(磐余彦命・神武)と共に北倭を率い南下を開始し九州博多に上陸し橋頭堡を築きます。この時、罽須と同盟していた公孫康(事代主命)は九州に渡来し日向・西都原に投馬国を建てます。
同年、磐余彦神武は博多の橋頭堡から、公孫康は南方の有明海から上陸し、大国主命の委奴国(博多及び吉野ヶ里)を挟撃します。委奴国の人々は数年間勇敢に戦いますが、先頭に立って戦っていた大国主命(シメオン族々長)が遠矢に当たり戦死し急速に戦意を喪失します。
二一三年、大国主命の委奴国は滅亡します。イワレヒコ神武と公孫康は南下して多婆羅国(熊本)へ攻め込みますが、五瀬命が戦死し熊本付近で敗北するものの、東表国・エビス王の仲介により和睦します。
多婆羅国王のニギハヤヒの尊はイワレヒコ神武に「十種神宝」を奉呈し北扶余以来の王権を禅譲します。以後、「三種神器」による天皇譲位の儀式となります。
二一四年、イワレヒコ神武は博多の橋頭堡に戻り旧伊勢国(猿田彦)の領土に伊都国を建国し王宮を須玖岡本に開き一大基地を建設しました。伊都国王の神武は一族を二分し王子達に東扶余と帯方郡伯済国及び伊都国の支配権を夫々委任し、自らは一大卒に就任し各地を監察して回ります。神武夫人の卑弥呼は委奴国の旧都・比恵の王宮に居住し、安羅国王であった弟の事代主命が亡くなった後は世襲地となった、安羅国を直接支配しその首都西都原を行き来します。