二二〇年、中国では曹操の死によって、曹丕が皇帝となり魏朝が建てられ、後漢の滅亡によって「三国時代」が始まります。
二二一年、遼東に残留した公孫氏では公孫康の弟・恭(建御名方命)が即位します。二二八年、公孫恭が死亡し、燕王として康の子・淵が即位します。
二三四年、神倭イワレヒコ・伊都国王=神武天皇が崩御します(享年六十六歳)。神武の死後、一大卒の地位をめぐって、再び「倭の大乱」が起こりますが、伊都国(筑紫)、多婆羅国(肥後)、安羅国(薩摩・日向)及び東表国(宇佐)の諸王が図って倭人連合の「邪馬壱国」を建国し、神武王妃の卑弥呼(公孫度の宗女)を女王に推戴します。そこで、卑弥呼(この時四十六歳)は神武と先妻アヒラツ姫(実は卑弥呼の妹)との間の王子・タギシミミ(季父)を伯済国から呼び寄せて夫婿とし、都を安羅国の首都・西都原に定め君臨します。
二三八年、魏の司馬懿仲達が公孫淵を殺し、燕国を滅ぼします。二三九年、故地、故国を滅ぼされた卑弥呼は魏に朝貢します。魏は卑弥呼を「親魏倭王」とします。二四三年、卑弥呼は再び魏に朝貢し「邪馬壱国・倭国大王」の地位を公認させます。
「魏志」倭人伝は「女王の名は卑弥呼といい、鬼道に仕え、よく人心を惑わしている」と記します。当時の東アジアの国々では卑弥呼は最も優れた鬼道のシャーマンとして尊敬されていました。
二四七年、卑弥呼は神武の博多侵攻の折り、委奴国王・大国主命を支援した沖縄の狗奴国王・長髄彦との戦いを始めます。二四八年、狗奴国王との戦いの中に崩御します(享年六十一歳)。直ちに、公孫氏の宗女・壱与(当年十三歳)が即位します。
卑弥呼の陵墓は大きな冢(円墳)です。イカッサル族の手によって西都原古墳群に建てられ、男佐穂塚古墳として現存しています。この古墳の円墳部分は直径百二十八メートル、高さ十八メートルの四段式円墳でしたが、明治時代に偽史シンジケートにより二十四メートルのクビレ部分と六十七メートルの変な尻尾を付けられ変形の前方後円墳に改竄されます。