前五百八十五年、ウラルトゥ王国は崩壊します。ウガヤ第十代王のアルカ(桓子)は一族を率いて東遷、キンメリ族(匈奴)と同盟します。そしてウガヤ王家はシルクロードを流浪しながら中国大陸に入り、大月氏族の助けを借りて華北に趙国(首都・邯鄲/別称・大扶余)を建国します。中国史では魏、韓、趙、燕、楚、斉、中山の戦国七雄の一つに数えられます。この時、中国の中原は倭人諸国で占められており、漢民族は存在していません。
一方、海のシルクロードを通ってニギハヤヒ王家は河南省南陽に宛の除として製鉄基地を形成していました。
前三百三十四年、マケドニア王アレキサンダー大王の東征が始まります。
前三百二十四年、アレクサンダー大王の東征軍に従ったエラム人の将軍サトラップは長駆驀進し長安に至り、ついに落陽の「韓」を攻撃しました。アレクサンダー大王がバビロンで病死し、大帝国が分裂し、セレコウスがバクトリア王になります。
前二百五十六年、アレクサンダー大王の東征に従軍したユダヤのシメオン族の裔のバクトリア知事ディオドトスがクーデターによって政権を奪取しグレコバクトリア(大秦国・大夏国)を立てディオドトス一世になります。
前二百四十六年、ディオドトス一世はバクトリアの統治を二世(胡亥)に任せ、自らは精強なペルシャ軍団を率いアレクサンダー大王の夢であった中国に向かいます。名前を秦王政として中原諸国制覇に乗り出します。
前二百三十九年、その大波をろもろに受けて大扶余(趙)にいたウガヤ四十二代・解慕漱(かいぼそ)が東北(満州)に逃れ、松花江河畔の農安に北扶余王朝(前期王朝)を建て王となります。
前二百二十一年、ディオドトス一世・秦王政が中国を統一して秦帝国を建国し、始皇帝と称します。一方、南陽にある製鉄基地「宛の除」のニギハヤヒ王家も始皇帝の圧迫で海路を使い天の鳥船に乗って華北の搭子河流域に移動し「徐珂殷」を建国します。穢国と呼ばれます。そして殆どの倭人国家は中原を追われます。
前二百十三年、始皇帝の焚書坑儒により、ユダヤのガド族はシメオン族に迫害され列島に向かいます。後に不比等と結婚する宮子が出ます。
前二百十年、始皇帝急死。
前二百六年、秦帝国滅亡。ユダヤのシメオン族のバクトリア人と中国の先住民族の高令やチュルク族やミャオ族達と混血し、後の漢民族の中核をなします。
秦帝国の滅亡により権力の空白地帯となった中原に漢が勃興し、漢民族が生まれます。
ユダヤのシメオン族はガド族を追尾し列島に向かい、先着していたガド族猿田彦の伊勢国を駆逐し、博多に委奴国を建て大国主王家となります。後に不比等を生みます。
遼東半島にはソロモンとシバの女王の末裔、大物主王家の公孫氏が入り後にウガヤ王家の神武と大物主王家・卑弥呼との出会いが生まれます。