ウガヤ王家・北扶余王朝初代・解慕漱(前二百三十九年~百九十四年在位)を桓檀古記・北扶余紀は次の様に述べています。
「壬戌元年、帝、天姿英勇にして神光人を射るこれを望むに天王郎の若し。年二十三にして、天に従いて降る。これ檀君高列加五十七年、壬戌四月八日なり。熊心山に依りて起ち、室を蘭浜に築く。鳥羽の冠を戴き、龍光の釼を佩き、五龍の車に乗る。従者五百人と朝に則ち事を聴き、暮に則ち天に登る。ここに至りて即位す。
癸亥二年、この歳三月十六日、天を祭りて烟戸の法を設け、五加の兵を分置して、屯田自給し、以て不慮に備えしむ。
己巳八年、帝、衆を率い、往きて故郷に諭す。五加、遂に共和の政を撤す。ここに於て国人推して檀君と為す。これを北扶余の始祖と為すなり。※以下省略」
二代・慕漱離(前一九三年~一六九年在位)
三代・高奚斯(前一六八年~一二一年在位)
四代・高(解)夫萋(前一二〇年~八七年在位)
四代の在位中にニギハヤヒ王家の濊王アグリナロシの子アグリイサシが漢の圧政を嫌い遼東太守彭吾を伐った後、国を率いて北扶余に合流します。前一〇八年、ウガヤ王家に代り北扶余王となり東明王と名乗ります。
ウガヤ王家は押し出される様に東扶余に移ります。
東扶余王・初代・解夫萋(前八六年~四七年)
東扶余王・二代・金 蛙(前四七年~七年在位)
東扶余王・三代・帯 素(前六年~後二二年在位)
扶余王・初代・尉仇台(後一三六年~一六〇年頃在位)
扶余王・二代・扶 台(後一六〇年頃~一八〇年頃在位)
扶余王・三代・仇 台(神武)(後一八〇年頃~二三四年)
と続きます。仇台(神武)はウガヤ五十二世と数えられます。