約三千五百年前、イスラエル王国の運航するタルシシ採鉱船が九州国東半島の重藤海岸に大量の砂鉄の堆積層を発見し、乗り込んでいたヒッタイトの製鉄カースト(後の蘇我氏)が野タタラの製鉄コロニーを築き大量のナマコ鉄を作り、武器や各種農具の鍛鉄製品に仕上げ、乗船していたエブス人(後の中臣氏)が華北の殷文化圏等に運び売り捌きます。
それを、タルシシ船の運航に従事していたフェニキア人から伝え聞いたメコン上流の照葉樹林で栄えたバンチェン王国のシュメール人や苗族達がタルシシ船に乗り有明海の鳥栖に渡来し水田稲作農業を北九州に持ち込みます。
水田稲作農業文化が北九州一帯に広がり重藤の製鉄コロニーも隆盛となり約三千百年前、エブス人とフェニキア人等が豊前京都郡に東表国・宇佐八幡宮を建て、タルシシ船の船長エブス人のクルタシロス一世が初代王となります。こうして、北九州に水田稲作の弥生文化が幕開いて行きます。千年王朝の始まりです。
「宇佐八幡」はヒッタイトの首都ハットウサの捩りで、「東表」は蛇神トウビョウを表しますがサバ国の対岸、今のソマリアにあったオッフル国の植民市を示し、オッフルは古くはプントと言い、ギリシャ神話ではデルフォイの都の旧名・プートンは蛇の意味です。蛇神は農業の神でもあります。