約三千五百年前に始まった国東半島のタタラ製鉄開始を追う様に始められた金属文化を伴う水田稲作農業は五百~千年を掛けて日本列島全体に普及していきます。
タタラ製鉄文化の足跡は各地に「炭焼き五郎」や「一つ目小僧」等の伝承が残り、「村の鍛冶屋」に各種の鍛鉄製品を運んだエブス人(恵比寿・胡・蛭子・戎・夷)の商人は各地にエビス神社を残します。
近年、水田稲作農業の遺跡発掘が進み、佐賀県唐津市の菜畑遺構は16層からなり、放射性炭素14の年代比定から紀元前930年頃と確認されました。福岡県板付の遺跡は更に百年以上遡ります。菜畑や板付における水田では用水路、柵、堰、取水口、畦が発掘され、極めて整備された形で水田稲耕作が行われていた事が判明しています。
前213年、秦始皇帝の「焚書坑儒」からシメオン族のガド族苛めが始まります。前86年、ガド族はリーダー猿田彦命(初代)に率いられ水田稲作農業が盛んな北九州に渡来し吉武高木に伊勢国を建国し、鉄鐸・銅鐸文化を列島に持ち込み北九州に勢力を張り始めます。東表国のエビス王クルタシロスは脅威を感じ、秦帝国が崩壊し半島南部まで移動してきたシメオン族と手を結び背振山地南部を割譲して渡来を促します。前74年、シメオン族は対馬経由で有明海から上陸し、鳥栖と吉野ヶ里に委奴国を建国します。シメオン族は大国主命を国王として推戴します。
AD163年、東表国エビス王海部知男命は委奴国王大国主命と連合して、高句麗と同盟していたガド族猿田彦を攻撃し、その太陽神殿を破壊し、超大型青銅鏡を悉く破砕します。国を奪われた猿田彦のガド族は二手に分かれて亡命東遷します。
AD210年、高句麗王子でもある扶余王の罽須(イワレヒコ神武)が北倭軍を率い南下し北九州糸島半島に橋頭堡を築きます。扶余王罽須と同盟し中国遼東にいた公孫氏(イカッサル族)の大物主王家も渡来し日向に投馬国を建国し、罽須の北倭軍と共同して大国主命の委奴国を挟撃します。委奴国王大国主命が遠矢に当たって戦死したため、シメオン族は急速に戦意を喪失し委奴国の吉野ヶ里は滅亡し、敗れたシメオン族は再びガド族を追う様に東遷します。
AD213年、イワレヒコ(神武)は北倭軍を率いて公孫氏と連携して熊襲多婆羅国のニギハヤヒ軍団と戦い熊本付近で敗れますが東表国エビス王の安日彦の仲介で和睦します。