AD1~2世紀頃、建国から千年を経た東表国は国東半島、重藤海岸のタタラ製鉄が砂鉄資源の枯渇危機に瀕していたため、周辺各地に鉄鉱資源の探索を続ける中、韓半島南部洛東江河岸の亀旨峰に良質の鉄鉱石産地を発見します。秦帝国の興廃からガド族猿田彦とシメオン族大国主命の渡来。扶余王罽須(神武)のウガヤ王家と公孫氏大物主王家の渡来から北九州は争乱期を迎える中、東表国は凡そ三分の一の勢力を韓半島南部に送り製鉄を開始し、各地に鍛鉄製品の供給を始めます。
製鉄と水田稲作が軌道に乗った段階の三世紀中葉、金官加羅が建国され、首露王(中臣氏)が初代王としして即位し、インドのアユダ国の王女許黄玉が輿入れします。東表国と同様に製鉄部族ヒッタイトの蘇我氏と商業部族エブス中臣氏の連合政権です。
金官加羅は瞬く間に韓半島南部の盟主の地位を築きますが、本国の東表国は吉野ヶ里で初代大国主命が北倭軍の流れ矢に当たり倒れ、シメオン族が東遷するのを機に、残りの半分の勢力を東遷追従させます。
金官加羅の王統は二代・居登王、三代・麻品王と続き、七代・吹希王の時、ウガヤ王家の応神の娘・仁徳を娶ります。仁徳は同時に倭大王・讃となります。ここに、極東のブルボン王家と比喩される倭の五王の始まりです。犬猿の仲であったウガヤ王家と東表国・エビス王家の邂逅です。以降、吹希と仁徳のファミリーは倭の大王家と金官加羅王家と百済王家の王を独占します。仁徳の弟・珍は倭王となり、息子・済は倭王・反正となります。 孫の興が倭王・安康、武が倭王・雄略で五代となります。