「新羅・花郎軍団」1

 606年、インドのグプタ王朝がヴァルダナ王朝ハルシア王に滅ぼされため、傘下の騎士団は止む無く移動を開始します。金官加羅初代首露王に輿入れした、阿喩陀国の王女・黄玉、後の許太后の血縁を頼りに東南アジアから東シナ海を北上し満州を経て金官加羅の後継国新羅に入り外人部隊となります。彼らは「ギータ」という封建的な忠誠を尊ぶ三千人の武士団でしたが、長い移動中にホモセクシャルな軍団となっていたため、受け入れた新羅の人達は彼等を「花の野郎たち」と呼び、それを略して「花郎」と呼びました。花郎軍団の長官は「源花」と呼ばれ、「兵士」を「朗徒」と呼びました。その軍団の長官の地位に金官加羅の最後の王・金仇亥の曾孫・金庾信(中臣氏・中臣鎌足のモデル)が座ります。

 金庾信は「毗曇の乱」(蘇我氏と諸侯による王位争い)の時、新羅王子・金春秋を援けて、その鎮圧に成功すると、その縁で彼の妹が金春秋に嫁いだため、金春秋と金庾信は義兄弟となりました。やがて、太宗武烈王(天智の初期モデル)となった金春秋は捨て身の外交によって唐の高宗に取り入ることに成功します。

 新羅は隣接する高句麗と百済に囲まれ苦戦していましたが、唐・新羅連合を立ち上げます。かくして、唐・新羅連合は白村江の戦いで百済に勝利すると、その余勢を駆って北九州に侵攻し倭国を占領します。その時、占領軍の新羅軍元帥として列島入りしたのが「花郎の長官」金庾信でした。金庾信は引き連れた花郎軍団を祖先の地・宇佐八幡に駐留させます。