672年、北九州の倭国を占領していた唐・新羅連合軍は花郎軍団長官・金庾信を更迭し新羅本国に召還し、百済軍人であった郭務悰(中臣鎌足のモデル)を再教育し連合軍指揮官に据え、宇佐八幡に駐留していた花郎軍団を委ね、飛鳥の秦王国に侵攻させます。花郎軍団の統率力を間近に見た、秦氏及びシメオン族等の諸部族は戦いの無意味さを悟り、一斉に寝返って連合軍に降伏します。秦王家を守る軍は孤立して総崩れとなります。
これより以降、諸部族は新羅側の軍政に協力していきます。そのため機織部の秦氏及びダン族のグループは敗北し雪崩を打って秦王国の分国地の関東地方に逃れます。やがて彼等は鹿島神宮や静神社の機織部の領域付近や蘇我、行徳及び秦野付近に散居して逼塞します。
673年、飛鳥浄御原に「新羅総督府」が樹立されます。その後、新羅の王子達(中臣氏と蘇我氏)がブレーンを引き連れ、次々に「奈良総督府」に進駐入府します。
新羅文武王(金法敏こと天武天皇のモデル・来日せず)の王子達が奈良盆地に進駐して日本総督となり、日本の天皇として即位して行きます。奈良朝廷の誕生です。