司馬遷の『史記』の時代の『山海経』「海内東経」の地理誌を江戸時代までの儒学者は「蓋国(濊国)※ウガヤフキアエズ王家」は鉅燕(遼東)にあり、南倭と北倭は燕に属す」と読んで、門下生や塾生たちに教えていました。
それを明治時代に偽史シンジケートの巨魁、東大史学科教授の黒板勝美氏が「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す」と意図的に?誤読して学生に教えました。
こうして明治以後の皇国史観による学校教育で北倭・南倭の歴史を教えなくなり、扶余王神武が北倭人を率いて南倭人の国(東表国のちの日本)を侵略した歴史を分からなくします。
そのため学者や神官たちの間でも、神武天皇や王妃・卑弥呼(後添え)の出自を知らない人々が殆となります。大学の教授や高校の先生たちも敬遠して、この問題には触れませんでした。
『晋書』巻九十七「四夷伝」中に「もと男子をもって王となす。漢末………倭人乱れ、攻伐して定まらず、すなわち女子を立て王となす。名を卑弥呼という。宣帝(司馬懿仲達の尊号)平ぐる公孫氏なり」とある。これをもっても邪馬壱国(やまいこく)女王卑弥呼の出自は明らかです。また、鹿島昇氏の翻訳した『桓檀古記』には神倭イワレヒコ(神武)の出自が書いてありますが、大学の先生方はそれらを密かに読んでも「知らんふり」をしています。
『契丹北倭記』の「北倭人」と「南倭人」には契丹(のちの遼)三族のうち、室韋蒙瓦部は雲南省の佤族と同民族で満州に残留した北倭人であり、同族の庫莫奚は扶余濊族のことで北倭人です。
また、契丹の王妃族蕭氏と沖縄の王家尚氏は同族で新羅(加古島始良郡)の初期王家・朴氏(バンチェン王ナーガ族の漢姓)の出身でした。