新羅・朴氏の祖の南解次々雄は狗奴国王でした。前三世紀から三世紀にかけて、狗奴国(沖縄・南倭人のクニ)は朴氏(クシャトリア)の植民地です。すなわち、牛トーテムの王妃族蕭氏がバアル教(ユダヤ人の宗教)の神官「キキタエ」の家系です。そのため「契丹北倭記」は朴氏の狗奴人(南倭人)を契丹族の祖としています。
三世紀以後の東日流の荒吐五王国は扶余族と公孫氏の「北倭人」に追われた狗奴人が船団を組んで日本海沿を移動し、亡命先に建てた植民地です。また、沖縄の尚氏と契丹の王家の紋章はともに三つ巴で、新羅王家(蘇我氏・金氏)の家紋も同じで、韓国の国旗に引き継がれています。
『契丹北倭記』はフェニキア人の歴史書でした。
1904年(明治37年)日露戦争の最中、陸軍経理将校・浜名寛祐は奉天(瀋陽)郊外のラマ寺で古文書を発見し東京に持ち帰り、二十年の探求解読の末、『日韓正宗遡源』として世に出します。さらに、その研究を深めた浜田秀雄・鹿島曻の両氏が適切な解説文を加えて「契丹北倭記」(別名「倭人興亡史」)を発表します。こうして、この「北倭記」が世界的にも珍しいフェニキア人の「史書」であることが明らかにされました。
ではなぜ東大教授の黒板勝美氏に「燕国」の歴史が分らなかったのか。
それは、前十一世紀以後、「燕」という国が三回も王家がかわり、人民もかわりました。それに応じて前三世紀以来、箕子朝鮮が「奇士朝鮮」になり、番韓→馬韓→辰韓→三韓(高麗・百済・新羅)へと発展した歴史が、秦始皇帝の「焚書坑儒」およびそれを真似た三韓の三度にわたる「焚書」のため、非常に分かりにくくなったためか?