三回も王朝が替わった「燕国」の歴史。一つ目は「智淮氏燕」(カルディア人の燕)。前一〇一三年、イシン王国(バビロン国)の末期に、フェニキア人のマカン(海の国・番韓)がウラルトゥ(後のウガヤフキアエズ王家)とともにアッシリアと戦った。その結果、アッシリア王シャルマネサル二世の攻撃によりイシン(殷の本国)が滅んだため、番韓のヤードゥ族は海に浮かんでインドへ逃れ、ウラルトゥ(潘族)は北方ヴァン湖(トルコ)周辺に退き、シャキィ族(宛族)は南に下って後に河南省南陽(宛)の徐氏(後のニギハヤヒ王家)となります。
この時、カルディア人はアッシリア軍に捕らわれていたイシンの王族・子叔箕賖(シンマシェフ王)を奪い返し、はるばる航海して渤海湾に至り遼東半島に上陸します。そしてカラキに築城して国を建て、辰迂殷、すなわち「箕子朝鮮」と名付けます。
これを、『契丹北倭記』は次の様に記しています。
「ここに至り、アッシリアおよび周王朝(中国におけるアッシリアの分国)はイシン(殷の辰国・箕子朝鮮)征討を断念し、その王箕子を封建(諸侯)にしようとしたが、箕子はこれを拒否した」
前一〇〇六年、アッシリアのバジ王家とエラム人が攻撃してきたので、箕子の一族はシルクロードを辿り、金鉱のある湖底の都イッシク・クルに退いて都した。
その歴史について箕子国の史書『辰殷大記』は「箕子は老いて子がなかった。王はまさに東に引かんとして、海の国の末王カシュナディンアッヘ(前一〇〇六年~前一〇〇四年)の王子を養子とし、ついで没した(八六歳)。この王子は倭国史の天の国常立尊である」と述べています。これが第一の燕です。