「北倭と南倭」4

 前六世紀、河南省洛陽北方の平陽に移民したマカン人(番韓人)の集団が中原に「韓」(首都・鄭)という小国家をつくります(戦国時代)。

 前三二四年、アレキサンダー大王の東征軍に従った、エラム人の将軍サトラップと同僚のマザウェスはシルクロードを驀進して長安に至り、ついに洛陽の「韓」攻撃に参加します。やがて大王の軍が、中国先住民族の治め難さを知り、インドへ転進して引き揚げたのちに、将軍マザウェスの部隊が韓人(番韓人)とともに遼東に移動して「箕子朝鮮」を建て、先住のカルデア人の遺民をも吸収します。これが第二の「燕」です。

 やがて漢人たちは、前者カルデア人の燕を「智淮氏燕」と呼び、後者エラム人の燕を「召口の燕」または「セラミス軍団の燕」と呼んで区別します。かくして、箕子朝鮮の王族以下が満州に先住していたチュルク人や匈奴(フン族)と盛んに混血し「東湖」と称します。その中で、中山国鮮虞の胡人が主な東湖です。その東湖の鮮卑族から契丹・昆莫城・室韋の三部族が生まれます。さらにそこから蒙古族が誕生します。

 前一九五年、漢がエラム人(召口)の燕を滅ぼします。このあと、漢に屈服した燕人衛満が奇計をもって箕子朝鮮を滅ぼし、王倹城に衛氏朝鮮を建てます。

 前一二八年、箕子朝鮮の上将卓が一族を率い、楽浪郡月支(平壌)に辰国(中馬韓)を建てます。このとき、箕子朝鮮と行動を共にしていた秦の亡命ユダヤ人「失われた十部族」のうち七部族が南下して、慶尚南道(慶州)に馬韓の分国を建て、辰韓または秦韓と称します。

 前一〇八年、漢が衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪・臨屯・真盤・玄莵の各郡を置きます。