一六五年、東表国エビス王の海部知男命が高句麗を攻め、次大王を殺します。そのため、高句麗王には新大王(伯固)が代って即位します。『高句麗本紀』によれば、「この新大王には四人の王子がいた」と記されていますが、本当の実子は長男の発岐王(涓奴部・五瀬命)および次男の故国川王(桂婁部・男武・稲井ノ命)の二人です。別に三男の山上王(延優・位宮・三毛奴命)および四男の罽須(貴須王・尉仇台二世・仇首王・若三毛野命・神倭イワレヒコ=神武)を新大王の子であるとしていますが、本当の子ではありません。山上王と罽須は実の兄弟でウラルトゥ人(フェニキア人とヒッタイト人の混血)扶余族の血筋です。扶余族と同盟を結んで東表国(千年王朝)の権威に対抗するため、新大王はこの二人の王子を養子とします。
こうした修史の結果、『高句麗本紀』は「新大王には四人の王子がいた」となります。『倭人興亡史』=『契丹北倭記』の第7章に「神祖・新大王(伯固)は故国川王(男部)をマコクに、山上王(延優)をヤコクに難升米(尉仇台二世妃・アラツヒメ)を楽浪に、罽須(尉仇台二世)をサハキ(扶余)に、発岐(五瀬命)を沖縄に配した」とあります。これは高句麗史官による(後世の)粉飾修史で、このころ五加(五部族)がこのように配置されていたと解されます。
一六七年には東扶余のウガヤ王五十一代扶台(~一八〇年)が二万の兵をもって玄菟郡を襲います。一七九年、高句麗新大王が崩御し、次子故国川王(~一九七年/伊夷謨)が在位します。この時の後継者争いに敗れた発岐が、涓奴部三万人を率いて遼東候・公孫域にいったん降伏しますが、のちに再び沸流水の畔に帰るとあります(契丹北倭記)。
一八〇年、東扶余のウガヤ王五十二代尉仇台二世(罽須/~二三四年)が、一八九年には遼東の燕王・公孫度(遼東候公孫域の長男・大物主命/~二二九年)が在位します。
一九七年には高句麗新大王の三男・山上王(延優/~二二九年)が在位し、輯安(集安市)に丸都城を築城します。同年、山上王の弟・罽須(尉仇台二世・)が公孫康(度の長男・事代主命)を破ります。この戦の後、罽須(後の神武)と康(のちの投馬国王)は和睦して婚姻関係を結びます。公孫度(大物主命)の次女アラツヒメが罽須(神武)に嫁ぎ、罽須の妹・武熾姫が康(事代主命)に嫁いで、互いに義兄弟になります。後に、妹アラツヒメの死後、姉の卑弥呼が神武の後妻となり、共に「九州征服」の侵攻作戦を遂行します。そして神武の死後には、邪馬壱国の女王となりなります。