若きシメオン族々長の不比等とガド族の姫・宮子と結婚を仲人したレビ族の郭務悰の三人の血が長男の南家、次男の北家、三男の式家、四男の京家の藤原四家を誕生させた。
不比等と宮子の五男が聖武となりミカドと呼ばれ、姉の光明子が皇后となり実権を握ります。七百四十九年、聖武天皇の譲位により孝謙天皇が誕生しますが、孝謙は光明子と百済王敬福の間に生まれた子でした。世間では高野姫と呼ばれた若き姫・孝謙天皇は美男の道鏡(敬福の四男)との間に子を作り、その子が山部親王となり、桓武天皇になります。百済政権の誕生です。平安時代はウガヤ王朝と藤原氏の合同政権です。神武と卑弥呼の血の復活です。無血クーデターです。
紀元前千年頃、メソポタミアのイシン王国の末期にフェニキア人の海の国・マカンがアッシリアと戦った結果、アッシリアのシャルマネサル二世の攻撃でイシンが滅びアラム人は北方のトルコのヴァン湖の周辺に退きヒッタイト人とフェニキア人が混血したアラム人のウラルトゥ王朝(初代男王・アマテル)が誕生し、その後ウガヤ王朝に変遷しながら、陸のシルクロードを東遷し北支に到達、ウガヤ王朝は連綿と続きます。
淡海三船の天皇諡号について追記します。諡号に「神」の字を付けたのは王朝の始祖。神武は東扶余から列島に渡来し博多に伊都国を建国します。ウガヤ王朝の初来日です。崇神はウガヤ王朝と東表国・エビス王朝を合体させ北九州に倭国を建国します。応神は倭の五王の初代の位置づけ。
諡号に「武」を付けたのは征服王朝。神武は博多の大国主の委奴国を破り、博多に伊都国を建国。天武は白村江の戦いで倭国に戦勝し、息子達に列島を征服させ、奈良新羅王朝を設立します。聖武は不比等と宮子による新羅政権奪取。桓武は淡海三船の天皇諡号ではありませんが、百済ウガヤ王朝の無血クーデターで平安王朝を設立。
淡海三船(大学頭・文章博士七百二十二年~七百八十五年・ガド族出身)は日本書紀の書かれた時代を生き、具に実態を把握できていた。淡海三船の撰述になる「唐大和上東征伝」は唐・仏教界の日本への侵攻作戦、すなわち東征を語ることにあったと思われる。