「渤海・契丹」2

 唐の則天武后の自立で、唐の東北における支配に動揺が起こったのに乗じ、六百九十六年遼西営州(熱河省朝暘)にいた契丹族の酋長李尽忠が、営州都督を殺して、唐に叛いた騒動を機とし、かねて高句麗滅後、同地方に移置されていた高句麗系の白山靺鞨人の大祖栄というものが、遼河を渡って東走し、まず長白山東北の白山靺鞨部の旧地に根拠を固め、六百九十八年に震国を建てたのがこの国の創基です。

 この大祚栄が初代の高王で、次第に粟末靺鞨や高句麗の故地を服して勢力を張ります。唐の玄宗の時、七百十三年に高王を渤海郡王に封じたので、爾後この渤海を国号とします。高王についで、その子の武王が立ち、中国に倣い仁安と建元し、国家体制を整えると共に、その領土の拡張を図ります。武王は兵を出して山東沿岸を掠め、地方官を殺したので、唐は新羅に命じて渤海の南辺を侵略させます。

 この対唐関係が起こった時期に、わが日本への通交が武王によって始められます。もっとも武王は唐に対して武力抵抗はしますが、一面には唐に朝貢の礼をとることを忘れず、文物の輸入、物資の交易のための遣使は続けます。

 武王についで文王大欽茂が立ち、大興と改元します。王は七百三十七年から七百九十四年の在位で実に五十七年、渤海二百二十八年の存続中の四分の一を占め、領土の開拓、文物の整備のあったことは、唐が王を渤海国王に進封したことと、実質的な国力の発展が唐に認められた結果でもあったろうか。王の一代における、日本国との国交は極めて頻繁となりました。