「渤海・契丹」3

 第十代の王として初代高王の弟の大野勃四世の孫の宣王大仁秀が立ち、建興と改元し、新しい気運を開きます。新唐書(巻二百十九)渤海伝には「仁秀頗討伐東北諸部、開大境宇」と記しているのに徴しても、その領土の拡大が知られる。

 宣王は八百三十年に没し、その後は宣王の子孫が継承します。渤海の王統は宗家の大祚栄の統から分家ともいうべき大野勃の血統に移り、四王を経て最後の第十五代の大諲譔に至ります。当時明らかなことは、中原記録に欠けるところがあるのを憾みとしますが、遼史(巻七十五)耶律羽之伝によれば大諲譔時代には大官貴族間の権力争いや不和の事情が揣摩できるし、高麗史太祖世家には渤海の大官の来投等のこともみられるので、国政上の不穏の事件が、その統制を紊すものであろうことが推測されます。これが契丹の太祖耶律阿保機をして、九百二十六年一挙に国都忽汗城の攻陥、大諲譔の降伏、王国の滅亡とならしめる原因となったであろう。

 かくして内蒙古シラムレン河域に拠った、契丹族の耶律阿保機は満鮮に亙って二百年の支配を続けた渤海国を支配することになります。しかし、阿保機はこの地を直領とせず、長子突欲(倍)に与えて新たに東丹国として、これに治めせしめ、契丹の宿臣、渤海の旧宰相を併せて用いて、その国政に当たらせ、大諲譔は遼の国都に移治した。しかし阿保機は凱旋の途で没し、東丹王突欲はその柩に従って本国に引き揚げ、東丹国も遼陽に移治したので渤海の旧土は小勢力の分立紛争に委ねられます。