耶律羽之は東丹国で旧渤海の史官を動員して修史を試み、その結果、四十六章からなる史書を完成させますが、この貴重な史書は難解なためか世に現れず、久しく埋もれて識られなかった。この史書を世に出したのは、陸軍経理将校の浜名寛裕です。
浜名は1904年(明治三十七年)日露戦争当時、奉天(瀋陽)郊外のラマ寺で、この文書を発見し、その研究をライフワークとして二十年に及ぶ研究を続け、自ら解読しました。そして、この文書は倭人(日本人)のことと韓人(朝鮮人)のことを記録していることを識り、1926年(昭和元年)に「日韓世宗溯源」と名付けて発表します。
古文書は契丹文字を漢字によって記録する「万葉集」などと同じ様式によって書かれていました。契丹に限らず、このことは日鮮でも広く行われた様式です。918年契丹と同じように建国し、後に契丹国に続いて元帝国に服属した高麗も、15世紀のハングル誕生以前は同様に漢字を使用し、これを吏読(リト)と称して金石文や歌謡あるいは公用文に使っていました。
浜名は、さらに古文書の用語であった渤海語と日本語の口語の類似性に気づき、吏読方式の本文を、ほぼ完全に訓読しました。古文書を読めば、その用語が日本語と類似していることを不思議に思うでしょう。「続記」では渤海の使節が来日したとき、ほとんど通訳を入れずに公卿たちと会談していたと書かれています。同じ系統の言語だったのです。
実は日本古代の北倭語と渤海語はともに馬韓語から分かれた言語でした。馬韓語と渤海語は後に死語となりますが、古文書成立の過程を考えると、耶律羽之が東丹国(渤海)と契丹の融合を図るためあえて渤海の口語で書いたとすれば言語の類似性はおかしくありません。
分かり易く言えば北倭語は扶余族・馬韓系の方言と言えます。今日私達が古文書を研究出来るのは、まさに浜名寛裕氏の労作のお陰です。