「ウガヤフキアエズ」

日本書紀巻第三、神武天皇の記述に神日本磐余(かむやまといわれひこ)天皇の諱(実名)は彦火火出見(ひこほほでみ)といい、鸕鷀草葺不合(ウガヤフキアエズ)尊の第四子である。とありますが「神皇紀」「上記」「竹内文書」「九鬼神伝全書」では「ウガヤフキアエズ」は個人名ではなく王朝名になっています。

「神皇紀」では五十一代、「上記」「竹内文書」では七十三代とあります。これは、白村江の戦いに勝利した唐・新羅連合が北九州に進駐した後、新羅が大和に単独政権の樹立に成功し奈良朝廷を立ち上げ、唐に国家設立趣意書として日本書紀の提出に当たり漢・唐の歴史より古くならないよう、北九州先着エビス王家の東表国を消し去り、その建国時期に合わせるためウガヤフキアエズ王朝を一代にし個人名としました。以下、ウガヤ王朝と記述します。

 ウガヤ王朝の始まりは前九世紀頃、ウラルトゥ王国がコーカサス、アルメニア、トルコのヴァン湖周辺を支配し隣国アッシリアと対抗したのが揺籃期です。前六百九年アッシリアが滅亡したあとも生き残って、前七世紀の初め頃キンメリと同盟します。

 ウラルトゥ王国はメソポタミアで前十九世紀頃、バビロン第一王朝が始まり、前十一世紀頃イシン王国の末期にニギハヤヒ王朝の礎となる海の王国のマカンがフェニキア人とヒッタイト人の混血したアラム人のウラルトゥがアッシリアと戦い、初め勝利するもアッシリア王シャルマネサル二世の攻撃でイシン王国が滅びニギハヤヒ族は海に浮かび、ウラルトゥは北方のトルコのヴァン湖周辺に退きました。

 ウラルトゥ王朝の初代王はアマテルという男王です(前八百八十年頃)。日本書紀はこれを神話時代の天照大神という女神に換えています。