「倭の五王・金官加羅」4

 極東のブルボン王家と比喩される倭の五王の暦年は、

421年、金官加羅七代・吹希王即位、王妃は応神の娘・仁徳(『遺事』)。倭王・讃(仁徳)宋に修貢(『宋書』)

438年、倭王讃死す

443年、倭国王済、宋に修貢

451年、倭国王済、宋に入貢、加授される(『宋書』)

460年、倭国王済が死し、世子興が立ちます

477年、倭王興死し、弟武が立つ(「宋書」)

 金官加羅五代伊尺品王の代の377年、金末仇(サホヒコ)の子・金奈勿が斯廬国(金城)の地に「新羅」を建国します。金官加羅の分国です。金官加羅と同様、製鉄部族ヒッタイトの蘇我氏と商業部族エブスの中臣氏の連合国家です。

 金官加羅十代仇衡王の代の532年、安羅国(本国は九州日向の卑弥呼と壱与の祖国)は倭王が極東のブルボン王家と比喩される仁徳と吹希のファミリーに独占されるのを嫌い、新興の新羅と謀り金官加羅を挟撃し滅ぼします。その後、倭王は再び安羅から出されます。しかし、これは安羅の最大の失政となります。

 新羅は法興王の頃から征服王朝の性格を備え始め、次の真興王の時代には全盛期を迎えました。さらに、インド・クブタ王朝が滅亡したため騎士団がアユダ国の王女許黄玉の血筋を頼りに新羅に漂着し外人部隊=花郎軍団となります。

 562年、新羅は任那官家とも称される安羅国を滅ぼします。ここに安羅は半島南部の全ての権益を喪失します。