「神武南征」

 二〇四年、北扶余(後期王朝)の王族でアーリア人の血がすこし濃いガド族々長であった饒速日尊(ニギハヤヒの尊)が白丁軍団を率いて日本列島への大移動を開始します。

これより先の紀元一年頃、彼らの先遣隊がフェニキア人のアメニギ氏(=エビス系濊王陜扶)に率いられ、阿蘇高原経由で熊本に渡来し多婆羅国を建国していました。

 そこへ今度は、二〇四年、ニギハヤヒの尊が率いる白丁軍団と、インド伝来の同族(クシャトリア・マラ族と海人メルッハの集団)とが連合大船団を組んで清津港を出発し、はるばる渡海して熊本港(バカン)の多婆羅国へ参入しました。

ニギハヤヒ軍団はこのとき、球磨川を遡り人吉盆地の相良郡に居を構えます。これが後に朝廷の傭兵(軍事奴隷→さぶろう人→侍→武士)となった白丁隼人の起こりです。彼らは平安時代に、桓武朝廷の傭兵軍団となって「アルテイの乱」などで活躍します。その功績で、大内裏を守る近衛兵士となって、南朝系天皇家のために忠誠を尽くすようになります。

 二〇九年、高句麗の山上王(~二二九年/延優)が長兄発岐と対立し、延優は丸都城に新国を建てます。発岐は独り別行動をとって沸流水の畔に自身の王国を建てます。だが翌年、発岐王は新たに立志。高句麗出征軍として南下します。のちに、その長子が涓奴部遺民を率いて新国と合流し、高句麗本国を強化しました。

 二一〇年、発岐王は立志して和名を五瀬命と名乗り、東扶余のウガヤ王である五十二代罽須(和名・磐余彦命・後の神武)とともに「北倭」を率いて南下を始め、九州博多に上陸して橋頭堡を築きます。このとき、扶余王罽須(神武)と同盟していた公孫康(事代主命)もチャム人を率いて九州へ渡来し、奴国(阿多半島)および日向西都原(宮崎県)に投馬国を建てます。

 この三豪族は同盟して、東表国の領域内に築いた橋頭堡を守るためと、併せて五十年前(一六三年)に旧伊勢国(筑紫・九州)を追われた猿田彦ら(ガド族+ユダヤ南朝系部族)の仇を討つため、大国主命(シメオン族)の委奴国を攻めます。

 二一〇年、神倭イワレヒコは橋頭堡から攻め込み、同時に公孫康は南方の有明海から上陸して委奴国(博多および吉野ヶ里の環濠集落)を挟撃しました。これに対し、委奴国の人々は数年間も勇敢に戦い続けますが、先頭に立って戦っていた大国主命が遠矢に当たって戦死したため、急速に戦う意欲を喪失します。こうして二一三年大国主命の委奴国は滅亡します。