坂上は、
「日本書紀と古事記は同じ時期に別々に存在したウガヤ王朝史と東表国史と金官加羅史などを縦に繋いで長く伸ばして構成されているんだ。神武、綏靖、安寧、威徳の四代はウガヤ王統を、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化の五代は東表国、金官加羅の王統が崇神、垂仁、景行、成務、仲哀、応神はウガヤ、百済王統が充てられているんだ。内容、エピソードは百済史や新羅史からとられているんだ」
伊集院が、
「奈良朝は政権を維持するためには多くの部族の協力が必要なので、内閣が組閣する時、過半数を得るために連立を組むのと同じ手法を採り、第二十六代から二十八代の三代に安羅大伴王家の談、金村、歌の三人を継体、安閑、宣化として取り入れているんだ」
麗華が、
「権力が移行するたびに日本書記は書き換えられているのよ。不比等の原案では神武以前の五十一代を越えるウガヤフキアエズ王朝史が記されていましたが奈良朝新羅政権はウガヤフキアエズを人名に代え一代にしたのよ。のちの世の淡海三船が天皇諡号に「武」の文字を使ったのは政権転換初代を示し、神武、聖武、天武、桓武がそれに当たるは」
由紀が、
「聖武は藤原政権初代、天武は新羅政権初代、桓武は百済政権初代なのね。聖武の時に藤原仲麻呂が書き換え、桓武の時は道鏡などの百済系の人達が記紀を改竄したのよ」
坂上が、
「史記はオリエント史の翻案漢訳でアッシリアは周、ペルシャは秦、ウルク・ウルが夏、イシンが殷、アッカドが五帝、エジプトが斉、マケドニアが田斉、ユダ王国が宗、イスラエル王国が魯、預言者エリアは孔子として描かれているんだ」
麗華が、
「アッカド・ウルクのエンエタルジが炎帝、ルーガルザキンが蚩尤、アッカドのサルゴンが黄帝、マニシュトスが堯、ナラムシンが舜に翻案されているのね」
伊集院は、
「その翻案されるオリエント史をつぶさに見ると、紀元前七百二十二年、アッシリア王サルゴン二世はサマリアを奪取し北朝イスラエル王国を滅亡させた後、イスラエル人をバクトリア方面に移動させ、天山山脈に近いメデスの地に居留させた後、消息を断った。この人々は「失える十氏族」と言われています。紀元前五百九十七年バビロン王ネプカドネザル二世はエルサレムを攻撃し南朝ユダ王国の人民をバビロンに連行し、さらに紀元前五百八十七年ユダ王国を滅ぼして、再び人民を連行した。この人々はアケメネス朝ペルシャがバビロンを滅ぼした後、解放されて故国に帰りますが、一部の人々はペルシャに残留してペルシャに仕えました」
麗華が、
「アッシリアとスキタイの同盟軍の圧迫でウラルトゥ王朝がウガヤフキアエズ王朝に変身しオリエントの騎馬民族キンメリと共に東方に移動しウガヤ王朝は扶余伯族になりキンメリは匈奴になった頃、アッシリアのサルゴン王によって滅ぼされ、強制的に住民移動させられた北朝イスラエルの十氏族も匈奴や扶余伯族と同じようにシルクロードを辿って移動し中国に入ったと想像されます。
アフガニスタンのバルクには紀元前五百年頃のユダヤ人のコロニーががあり、シルクロードの全域にわたってユダヤ人の遺跡があり、中国に近いハズナには九世紀ころ、多くのユダヤ人鉱業者がいて十一世紀にはユダヤ人が四万人になっていたそうです」
由紀が、
「開封のユダヤ人コロニーは良く知られていて十八世紀まで連綿と生き続けユダヤ教を奉じていましたが、度重なる天災や人災で漢民族に同化したそうよ」