「上宮聖徳」9

 平成三十年四月、上雉大古代史サークルOB四人組は久し振りに大学近くのレストランに集まった。西園寺は日銀に入行し総務人事局に配属されていた。

「島津、外務省の居心地は」

「北米局にいるんだけど、走り回っているよ。ダンスの稽古も出来ない」

「俺も、駆けずり回っているよ。美佳、総務省はどうだ」

「国会が始まって大変。毎日、残業よ」

「香苗、薄謝協会も忙しい」

「取材に追われて、毎日ハチャメチャ」

 西園寺が、

「ゴールデンウィークに明日香村にいかないか、甘樫丘の南麓の小山田古墳の全貌が見えてきたぜ」

 島津が、

「報道では墳形が方形で北辺は七十二米、南辺は八十米、南北が七十米だから、広庭の石舞台古墳を上回る規模だ」

 西園寺が、

「陵墓が南北で七十米は高麗尺で二百尺になる。高句麗帰りの石工頭が指揮しているね」

 美佳が、

「出土土器から七世紀中頃の築造と推定されているから、広庭の息子のアマタリシホコの陵墓で間違いなさそうね」

 香苗が、

「でも、リカミタフリの可能性もあるはね。下層では六世紀後半の集落跡が見られ、築造後の七世紀後半には掘り割りの埋没が認められるって、白村江で戦勝した唐新羅連合の占領軍が石舞台古墳共々壊したのかもね」

 島津が、

「占領軍の司令官は唐将軍の郭務悰でレビ族なんだ。新羅軍の手前、秦王国のレビ族を説き伏せ、二つの陵墓の解体でレビ族や他の豪族の命を守ったのかな?結果的にシメオン族大国主一族などの陵墓は守られ多くが現在天皇陵として存在することになったんだ」

 美佳が、

「郭務悰はもう一つ後世の歴史を決める重要な仕事をしたわ。鹿島神宮で中臣氏に育てられた不比等がシメオン族の族長になり奈良朝廷に出仕し、頭角を現すとガド族の娘、宮子と娶せ始皇帝の焚書坑儒以来八百年を超える両部族の抗争に終止符を打たせたのよ。後世、郭務悰は中臣鎌足とも藤原鎌足とも称せられ藤原氏の始祖に擬えられたわ」

 西園寺が、

「新羅占領政権は不比等に奈良朝廷は古来より大和存在したとする偽史を編ませるんだ。足庭、アマタリシホコ、リカミタフリの秦王国レビ族三代の大王を馬子、蝦夷、入鹿の蘇我氏三代に置き換え、シメオン族が歩んだ九州からの東遷と大和侵攻を神武東遷に組み替え、推古から持統の時代を創作し、日本書紀の原形を偽史シンジケート集団のテクラートに作成させたんだ」

 香苗が、

「聖徳太子もね」