AD4世紀頃、高句麗の広開土王は新興国新羅のSOSに弱小国支援を旗印に南征し百済と半島に進出していた安羅倭国や金官加羅と戦い勝利を納め、取って返して中原の五胡十六国の一つ燕と戦い勝利。更に北方の東扶余を討って領土を拡大、この時期の極東の最強最大国となります。しかし、五世紀中庸、後継者問題で貴族階級の対立が続き、その混乱に乗じ、新たに台頭した突厥が北から攻撃し、百済と新羅が南から攻撃したため、韓半島の中央部を新羅に譲り、突厥に集中対処し勝利を納めます。
三~五世紀頃、ウガヤ王家の崇神が苦難の末、エビス王家の開化を娶り倭大王に即位し、数代後の応神の娘、仁徳が金官加羅の吹希王に嫁ぎ倭王に即位します。そのファミリーは東洋のブルボン王家と評され、倭王、百済王、金官加羅王を独占し、いわゆる倭の五王の時代を迎えます。安羅倭国はその事態を快く思わず、AD五百六十二年、安羅は新羅と謀り金官加羅を挟撃し滅亡させます。金官加羅の王侯貴族の中臣氏は新羅に吸収されます。卑弥呼と壱与を輩出した安羅王家から再び倭王を出します。それが、大伴談・金村・歌の三代で日本書紀では継体・安閑・宣下と書かれています。。この事態は安羅の失政と言われ、金官加羅の滅亡により勢力バランスが崩れ安羅の倭国は後に半島の権益全てを新興国の新羅に奪われ、半島から撤退することになります。半島から金官加羅と安羅倭国が消滅し百済と新羅は直に接するようになり、両国は緊張状態に入ります。
六世紀後半には隋が勃興し中原に覇を唱え、隋帝国となり、拡大政策を継続していた高句麗と直接対決します。七世紀初頭、隋は三回、四回と高句麗を攻撃しますが、都度敗北し国力を衰亡させ隋帝国は短期間に滅亡します。
AD七世紀初頭、領土拡大政策を顕わにし始めた新羅にインド・グプタ王朝のクシャトリア騎士団三千人が許太后の縁を頼り、満州を経由し到来します。長期間、男だけで移動しホモ軍団になっていたため、新羅の人達は彼等を花郎軍団と呼びました。新羅はこの軍団を外人傭兵部隊として受け入れます。花郎軍団の長官は「源花」と呼ばれ、兵士は「朗徒」と呼ばれ、後に「源花」の地位に旧金官加羅王族の金庾信が就任します。「朗徒」は後に源氏武士団となります。
新羅が軍事国家として領土拡大政策を鮮明にし始めたため、高句麗、百済の両隣国は脅威を覚え、協力して新羅を攻めます。同じ頃、中原は随が滅ぼされ唐が建国されます。新羅は度々、金春秋を特使に派遣し同盟関係を結び、唐の藩屏国になり、唐軍に呼応して出兵しますが高句麗、百済連合軍に三十三城を奪われ危機に落入り唐に救援を頼みます。