六百九十四年、不比等は修史官として藤原宮に昇殿すると共に、新羅文武王(金法敏)の長男・草壁皇子から長子・軽皇子の傅役を頼まれます。軽皇子の母親・阿閇皇女は性格が相当にきつく、軽皇子は十七歳年上の不比等の隠れ妻の宮子に母親らしい優しさを求め、それが何時しか愛情に変わります。六百九十七年、軽皇子は十七歳で即位して祖父の名を継いで文武天皇となり、即位と同時に宮子を藤原不比等の養女という名目で入内させます。宮子は四年後の七百一年、後に聖武天皇となる首皇子を出産しますが、実の父親は不比等でした。
七百十三年、新羅皇子・文武天皇没後、不比等は巧妙に他の配偶者から「嬪」という称号を奪い文武天皇の配偶者は宮子だけとします。その翌年「ふひと」を文字って「おびと(首)」と呼ばせた首皇子を正式な皇太子として立太子させます。その上で、不比等と宮子の間に生まれた次女・光明子・二十二歳を本妻の県の犬飼三千代との間に生まれた娘と偽り、七百十六年、十五歳になった首皇子の皇太子夫人としします。そして、首皇子は聖武天皇として即位します。ガド族・宮子の子が天皇になったので、侍女達は聖武を「御ガド→ミカド」と呼びました。新羅本国の祖父・文武王は事情が分からず曾孫が聖武天皇になったと手放しで喜びますが、新羅王族の天皇は文武天皇で終わります。
不比等と宮子の五男である、首皇子は聖武天皇になり、その夫人となった次女の光明子は権勢比類なき光明皇后となりました。不比等のシメオン族と宮子のガド族の家系が「藤氏(唐氏)家伝」の藤原氏となります。以降、日本のエスタブリッシュメントの中枢を担い続け現代迄続いています。