公孫氏(大物主の命)の燕。 公孫氏(ユダヤ人イカッサル族)が史書に登場するのは『魏志』からです。その紀には「度、中平六年(一八九年)をもって遼東に拠る。淵に至るまで三世なり。凡そ五十年にして滅ぶ」と記しています。 […]
カテゴリーアーカイブ: 日出処の天子
「北倭と南倭」4
前六世紀、河南省洛陽北方の平陽に移民したマカン人(番韓人)の集団が中原に「韓」(首都・鄭)という小国家をつくります(戦国時代)。 前三二四年、アレキサンダー大王の東征軍に従った、エラム人の将軍サトラップと同僚のマザウ […]
「北倭と南倭」3
三回も王朝が替わった「燕国」の歴史。一つ目は「智淮氏燕」(カルディア人の燕)。前一〇一三年、イシン王国(バビロン国)の末期に、フェニキア人のマカン(海の国・番韓)がウラルトゥ(後のウガヤフキアエズ王家)とともにアッシリ […]
「北倭と南倭」2
新羅・朴氏の祖の南解次々雄は狗奴国王でした。前三世紀から三世紀にかけて、狗奴国(沖縄・南倭人のクニ)は朴氏(クシャトリア)の植民地です。すなわち、牛トーテムの王妃族蕭氏がバアル教(ユダヤ人の宗教)の神官「キキタエ」の家 […]
「北倭と南倭」1
司馬遷の『史記』の時代の『山海経』「海内東経」の地理誌を江戸時代までの儒学者は「蓋国(濊国)※ウガヤフキアエズ王家」は鉅燕(遼東)にあり、南倭と北倭は燕に属す」と読んで、門下生や塾生たちに教えていました。 それを明治 […]
「新羅・花郎軍団」3
698年、統一新羅は渤海国(実は後高句麗国)の建国対策に追われ忙しく、日本の奈良朝廷を仔細にフォローする余裕がなく、始皇帝と同族のシメオン族々長になった鹿島生まれの不比等が中臣氏のもとで帝王教育を受け、占領軍司令官・郭 […]
「新羅・花郎軍団」2
672年、北九州の倭国を占領していた唐・新羅連合軍は花郎軍団長官・金庾信を更迭し新羅本国に召還し、百済軍人であった郭務悰(中臣鎌足のモデル)を再教育し連合軍指揮官に据え、宇佐八幡に駐留していた花郎軍団を委ね、飛鳥の秦王 […]
「新羅・花郎軍団」1
606年、インドのグプタ王朝がヴァルダナ王朝ハルシア王に滅ぼされため、傘下の騎士団は止む無く移動を開始します。金官加羅初代首露王に輿入れした、阿喩陀国の王女・黄玉、後の許太后の血縁を頼りに東南アジアから東シナ海を北上し […]
「倭の五王・金官加羅」4
極東のブルボン王家と比喩される倭の五王の暦年は、 421年、金官加羅七代・吹希王即位、王妃は応神の娘・仁徳(『遺事』)。倭王・讃(仁徳)宋に修貢(『宋書』) 438年、倭王讃死す 443年、倭国王済、宋に修貢 451年 […]
「倭の五王・金官加羅」3
AD1~2世紀頃、建国から千年を経た東表国は国東半島、重藤海岸のタタラ製鉄が砂鉄資源の枯渇危機に瀕していたため、周辺各地に鉄鉱資源の探索を続ける中、韓半島南部洛東江河岸の亀旨峰に良質の鉄鉱石産地を発見します。秦帝国の興 […]