「ニギハヤヒ・穢」2

 BC二百五十六年、アレクサンダー大王の東征に従軍したユダヤ・シメオン族々長の後裔で、ペルシャ・バクトリア王国の知事に就いていたディオドトスがクーデターにより大秦国を建国し、大王の遺志を継ぎ十年後、精強なペルシャ軍団を率 […]

 「ニギハヤヒ・穢」1

 満州にあった北扶余前期王朝は神武に繋がるウガヤ王朝で中国史では伯族と称され、その後を襲った後期王朝はニギハヤヒ王朝で中国史では穢族と称されています。併せて穢伯と呼ばれました。  「天神本記」の有名なくだりに、  天照大 […]

 「渤海・契丹」6

『唐書』列伝契丹によれば「契丹はもと東湖種」とあり。契丹族は東湖の末であるが、『倭人興亡史』は東湖とは箕子朝鮮であるとしている。契丹は秦漢のとき、匈奴に破られるも鮮卑山の地を保った。三国-魏の青龍中、その酋長阿比能が魏に […]

 「渤海・契丹」5

 鹿島昇氏は著書で概ね次の様に述べています。 「契丹三族のうち、室韋蒙瓦部は雲南省の瓦部と同族で、満州に残留した北倭人です。さらに、同じ北倭人の庫莫奚は扶余濊族のことだという。片や契丹の王妃族蕭氏と沖縄の尚氏はナーガ族で […]

 「渤海・契丹」4

 耶律羽之は東丹国で旧渤海の史官を動員して修史を試み、その結果、四十六章からなる史書を完成させますが、この貴重な史書は難解なためか世に現れず、久しく埋もれて識られなかった。この史書を世に出したのは、陸軍経理将校の浜名寛裕 […]

 「渤海・契丹」3

 第十代の王として初代高王の弟の大野勃四世の孫の宣王大仁秀が立ち、建興と改元し、新しい気運を開きます。新唐書(巻二百十九)渤海伝には「仁秀頗討伐東北諸部、開大境宇」と記しているのに徴しても、その領土の拡大が知られる。   […]

 「渤海・契丹」2

 唐の則天武后の自立で、唐の東北における支配に動揺が起こったのに乗じ、六百九十六年遼西営州(熱河省朝暘)にいた契丹族の酋長李尽忠が、営州都督を殺して、唐に叛いた騒動を機とし、かねて高句麗滅後、同地方に移置されていた高句麗 […]

  「渤海・契丹」1

 神亀四年(AD727年)聖武天皇の姉で皇后の光明子に皇子が生まれ(実の父は百済王敬福)、十二月二十日、満州にある新興の渤海国から使節が突然、入京し渤海国と日本国は親戚である。皇子誕生に山のような土産を持参し友好国として […]

  「不比等」6

 聖武天皇は病弱(セミノール病)であったため、実権は姉である光明子(皇后)が握り、大仏用の黄金を献上した陸奥守(百済王敬福)を内裏(代理)天皇にして政務を執らせていた。光明子と敬福の間に三人の子が生まれ、その長女(高野姫 […]

  「不比等」5

 若きシメオン族々長の不比等とガド族の姫・宮子と結婚を仲人したレビ族の郭務悰の三人の血が長男の南家、次男の北家、三男の式家、四男の京家の藤原四家を誕生させた。  不比等と宮子の五男が聖武となりミカドと呼ばれ、姉の光明子が […]