日本書紀の述作者解明表の話を続けます。区分のα群は唐王朝時代の正しい音に通暁した格調の整った見事な漢文で記述された唐朝標準語グループ。β群は日本へ最も古い時代に伝わってきた百済音、江南の呉音による倭習の強い和化漢文で仏 […]
カテゴリーアーカイブ: 日出処の天子
「不比等」3
六百八十年代、奈良朝廷を立ち上げた新羅占領政権は諸外国への体面上、国史編纂の必要に迫られ忍壁皇子、川島皇子等が編纂委員会を発足させます。高市皇子と郭務悰から不比等に編纂への参画を指示されます。編纂委員会と不比等の間で基 […]
「不比等」2
六百九十四年、不比等は修史官として藤原宮に昇殿すると共に、新羅文武王(金法敏)の長男・草壁皇子から長子・軽皇子の傅役を頼まれます。軽皇子の母親・阿閇皇女は性格が相当にきつく、軽皇子は十七歳年上の不比等の隠れ妻の宮子に母 […]
「不比等」1
六百七十二年、新羅占領軍総司令官・レビ族の郭務悰は飛鳥の秦王国鎮圧作戦に臨み、花郎軍団の源花・中臣氏の金庾心と情報交換した。 郭務悰が「現大王家のレビ族を降ろした後の統治は十四代迄続いた前大王家のシメオン族を重用する […]
「白村江の戦い」5
白村江の戦いに圧勝した唐と新羅の連合軍は六百六十四年五月、唐の鎮将・劉仁帰が率いる四千人、及び新羅の鎮将・金庾心が率いる四千人の計八千人で倭国に侵攻し、太宰府に筑紫都督府を構え列島の占領軍政を開始。金庾心は中臣氏の故地 […]
「白村江の戦い」4
六百五十五年五月、唐は高句麗に出兵するも不首尾。六百六十年、唐の高宗は百済に遠征軍を向けます。三月、戦争をするために生まれてきた男、蘇定方を遠征軍十万の大総督に任命します。八月、唐陸軍は百済の国都に迫り、唐の陸軍に遅れ […]
「白村江の戦い」3
AD4世紀頃、高句麗の広開土王は新興国新羅のSOSに弱小国支援を旗印に南征し百済と半島に進出していた安羅倭国や金官加羅と戦い勝利を納め、取って返して中原の五胡十六国の一つ燕と戦い勝利。更に北方の東扶余を討って領土を拡大 […]
「白村江の戦い」2
BC213年、秦の始皇帝による焚書坑儒のため、孔子・孟子のガド族は亡命者となり、BC86年、九州の博多に渡来し、伊勢国を建国し猿田彦を王に戴きます。また、秦の滅亡により始皇帝子孫のシメオン族も亡命者となり、敵対したガド […]
「白村江の戦い」1
BC1世紀頃、国東半島重藤海岸段丘の野タタラでフイゴを吹いていた男に砂鉄堀が、 「もう数十年で砂鉄が枯れるぜ」 「タタラの薪で山の木も無くなりそうだ、国東の殆どがハゲ山になった」 「砂鉄か鉄鉱石の有る処を早く見付けねば […]
「上宮聖徳」13
令和元年五月、上雉大古代史サークルOB四人組は明日香に入り小山田古墳を見ようとするが学校敷地内のため見学不可。西園寺が、 「小山田古墳の見学は諦めよう、斑鳩に行って若草伽藍跡地と藤ノ木古墳をみようや」 皆で車に乗込み […]