「日出処の天子」28

 俀国の都、柳井水道一帯に新緑の季節がめぐり足庭は律令制、国造制の整備や織物業などの産業振興、新田開発を始めとする食糧増産などに意を尽くしていた折、足庭の次男の出雲王からサンカ衆の山越えで高句麗訪問団が無事出雲に到着し、博多に向かったと急使が届き、足庭は三郎と羅尾と身狭隊を伴い歓迎準備を整えるべく博多に急行した。

 博多の那の津に入った足庭は春日の王宮の太子に応援を頼み、豊国王の次郎には遠賀川沖通過時に来賀伝達。那の津の沖合に訪問船団の船影が見えカゴメ紋の幡のはためきを見て、足庭は小舟にカゴメ紋の幡と紅白の幟をを掲げた迎え舟を多数出した。

 筑紫王の太子が那珂川を下り那の津に入り足庭達に合流した時、高句麗訪問団を乗せた船団が砂州に囲まれた那の津の入り江に入港し、追尾する様に豊国王の次郎の祝船が沖合に姿を見せ、住吉大明神の神域を背に足庭と太子達が勢揃いしカゴメ紋の幡と紅白の幟を打ち振る中、訪問船団はゆっくりと岸壁に接岸した。

 足庭は弾達訪問船団一行に声を掛けた。

「大役、ご苦労様。無事の帰着、祝着でござる」

 弾が声をあげ、

「華やかなお迎え、驚嘆いたしました。多数のお揃いでの歓迎、痛み入ります。ありがとうござる。思い掛けない土産が多数ござる。お喜び下され」

 足庭が目敏く、

「仔馬を持ち帰られたか」

「華麗な馬具も一緒に持ち帰りました」

「仏教僧を連れ帰られたか」

「嬰陽王様から学問僧を委ねられました」

「それは喜ばしい。積もる話もあろうが、皆で春日の王宮に参ろう」

 帰朝歓迎の宴で足庭が弾に、

「高句麗訪問は如何じゃった」

「訪問は大変有意義でござった。絶妙の機会であったと存ずる」

「なにゆえ」

「高句麗第二十六代嬰陽王は即位間も無くで殖産振興、富国強兵に邁進されているのですが、隣国中国を統一したばかりの隋が領土拡大政策を顕わにしており、長い国境線を接している高句麗と早晩衝突すると危惧されており、我らに尽力を望まれました」

「具体的には」

「訪問団の我らに傭兵外人部隊への入隊を誘われました」

「それで何と返答された」

「戻り次第、足庭様と相談いたしまして、然るべき方策を考えますると、お答えいたしました」

「それで良い。三郎、太子、どうじゃろう、高句麗と同盟を結んで駐在武官を派遣する方法は」

 太子が、

「父上のお考えに賛同いたします」

「弾殿、如何であろう」

「足庭様のご思案に賛同いたしまする」

「三郎殿、琉球には領事を駐在させますかな」

「それが宜しいかと存じます。何れにいたしましても、迅速な情報収集の一助になりましょう」

「日出処の天子」27

 平成二十四年七月、期末試験を終えて古代史サークルのメンバーが部室に集まり、新入部員の自己紹介が始められた。黒木麗華が、

「薫君から、お願いします」

「伊集院薫です。島津家と同じ薩摩の出自です。杖刀のレビ族と言われています。趣味は剣道です。桐野利秋が使った示現流の稽古中です」

 美佳と香苗が、

「おお恐わ」

 と声を揃えた。麗華が続けて、

「次は、由紀ちゃん、お願いします」

「中曽根由紀と申します。高句麗から琉球に渡った長髄彦の末裔と言われています。王妃族粛氏の神官、キキタエ様の血も入っており美人が多いそうです。島袋ほどではありませんが。趣味は勿論、古代史です」

 西園寺と島津が声を揃えて、

「素晴らしい。古代史サークルはこれで安泰だ」

 坂上大二郎が、

「お二人は、学園祭の白村江の展示はどうでしたか」

 由紀が、

「勝って進駐した新羅も百済も高句麗も支配階層は、北倭や南倭で北倭ウガヤ王家の崇神が南倭エビス王家の開化王女を娶り皆親戚になり、括れば全て倭人諸国なんですね」

 西園寺が、

「白村江の後、百済の支配階層や技術者の殆どが列島に渡来移住し、高句麗の支配階層は渤海、契丹を建国。統一新羅もその後、滅亡し支配階層や残留していた花郎軍団達は列島や満州に移動しており、半島には倭人の支配階層はほゞ残留していないんだ」

 伊集院が、

「秦王国も東日流の荒吐五王国も白村江の戦いに船団を参加させたんですね。倭国と百済遺民の連合軍は結局、寄せ集めで指揮官不在の烏合の衆になったのが最大敗因なんですね」

 島津が、

「南倭の代表、東表国の後継国が金官加羅で、その分国が新羅ですが出自を隠蔽するため偽史を編み、中臣、蘇我を消し、金、昔、朴、三氏の連合国家と偽ったんだ。東表国の残留者は倭の大乱後、秦王国建国に参入していますが、白村江以前に筑紫倭国と大和の秦王国は国交を回復していたと思いますね。南倭の琉球狗奴国は東日流に荒吐五王国を建国していて、秦王国のシンパなんだ」

 西園寺が、

「白村江の戦いの攻防に参加した支配階層の全てが倭人であり、多くはユダヤの失われた十部族とも十二部族とも言われる人達なんだが、そのほぼ全ての人達はシュメール人とセム族の混血なんだ」

 美佳が、

「古代のユダヤ人はメソポタミアでセム族がシュメールの都市国家に侵入し始めるBC二千年頃からヤコブを長としたセム族の一部族が今のイスラエル地方に住み始めヤコブの妻達が十二人の子を産み育て十二部族としてイスラエルの各地に割拠しイスラエル部族と呼ばれたのよ」

 香苗が、

「その後、BC千年頃にソロモン王という英邁が現れイスラエルを最大版図に伸張させ、タルシシ船と呼ばれる、フェニキア人が運航する交易採鉱船団を定着させたのよ」

 麗華が、

「そのタルシシの採鉱船団が豊後水道を通り国東半島の重藤海岸に莫大な砂鉄の堆積層を発見しヒッタイト人がタタラ製鉄を始め、エブス人がその鍛鉄を殷文化圏に売り、千年王朝東表国に発展するんですね」

 島津が、

「同じ頃、メソポタミアにはセム族のアッシリア帝国が勃興し周辺国を圧迫し始め、製鉄と戦車のヒッタイト王国が早々と滅亡に向かい、海に浮かんだカルディア人がヒッタイト人達を吸収しニギハヤヒ一族となり、他のシュメール都市国家の王族の末裔たちと共にアッシリアに立ち向かい一度は勝利を得るものの、その後は圧倒され海のシルクロードを東に向かい、また、シュメール人とフェニキア人達が混血したウラルトゥ人はトルコのヴァン湖周辺に逃れウラルトゥ王朝を樹立しアッシリアと戦うものの幾度も敗れウガヤ王朝に変身し陸のシルクロードを東に向かったんだ」

 後輩たちが一斉に、

「そうなんだ」

 西園寺が、

「アッシリアの暴虐の嵐は止まずBC七百二十二年イスラエル王国に侵入し根こそぎ十部族を拉致し捕囚にしたんだ。その後、南のユダ王国の二部族も拉致されるもユダヤに戻され、アレクサンダー大王東征時に従軍したのがシメオン族達なんだ」

 美佳が、

「アレキサンダー大王が遠征を終え、バビロンで病没した後、総督の地位についたシメオン族のディオドトスがバクトリアに大秦を建国し、アレキサンダー大王の遺志を継ぎ、中国に侵入し秦帝国を樹立したんだ」

 後輩たちが一斉に、

「それが、大和の秦王国に繋がるんだ」

「日出処の天子」26

 弾の高句麗訪問団は翌々日、浦項の港を出港し、再び北流する親潮の支流に乗って北上した。遠く白頭山を望みながら船泊を重ね、高句麗東海岸の要港である元山の港に入港し、役人に秦王国改め俀国が交易に参ったと届け出た。

 港に留め置かれて五日目、役人から都の平壌へ案内すると伝えられ、積荷を小舟に積替え、文川を遡り、成川を下り、大同江から外城の平壌市街に入った。滞在一日目、役人が交易に至った経緯を聴取した。二日目、役人から明日、第二十六代嬰陽王に会えると知らされた。

 その日、弾達は威儀を正し中城を抜け内城に入り宮殿に扶座した。暫くして嬰陽王が出座し、一行に声を掛けた。

「荒海を越えて遠路よう参られた。俀国は大和の秦王国が大きくなって筑紫にまで進出したそうじゃな、弾殿」

「仰せの通りでございます。昨年、大和の飛鳥から柳井水道の奈良島に遷都し、筑紫に進出しております」

「聞けば、お主たちの先祖は高句麗に滞在しておったそうじゃな」

「そうでございます。美川王様の御世に西晋から貴国に入り、長寿王様の御世に船団を組み筑紫に渡ったと伝えられております」

「俀国の天子は足庭と申すそうじゃが、人と形は」

「足庭様はヤツガレの竹馬の友でございます。沈着冷静で常に前を向いております。東漢レビ族の族長でもあります。我は西漢ダン族の族長でございます」

「レビ族もダン族も軍事力に優れているそうじゃな」

「足庭様は文武兼ね備えておられますが、我は武骨一本槍でございます。同道いたしました東漢の坂上一族も武に秀でております」

「弾殿、我が軍の傭兵外人部隊に入って下さらんか、中国を統一したばかりの隋が領土拡大政策を推進しておる。早晩、長い国境線を接している我が国と衝突するのは火を見るよりも明らか、高句麗にご尽力下さらんか」

「義を見てせざるは勇無きなり。戻り次第、足庭様と相談いたしまして、然るべき方策を考えまする」

「して、交易に参ったそうじゃな」

「交易も然りながら文化交流、いえ、先進文化の受容を足庭様は考えておられます。此度は筑紫で収穫いたしました新米と飛鳥から絹織物と琉球から夜光貝を持参いたしますと共に、天文学者と石工の若手の精鋭を連れ参りました。また、琉球のキキタエ様から尚家の若者を委ねられました」

「そうか、勉学に参ったものは受け入れよう。弾殿が帰途に付かれるときは学問僧を連れ帰って頂こう。天文学者と石工が帰るときは絵師を送りだそう」

「日出処の天子」25

 筑紫の野が菜の花で埋まる頃、弾は高句麗訪問船団を編成し博多湾を出港。壱岐、対馬を経由して半島南東端を親潮の支流に乗って北上していた。新羅の都、金城の沖合に掛かる頃、三つ巴の紋章を掲げた船団が行く手を遮った。弾は水夫長に三つ巴の紋章とトウビョウの紋章とカゴメ紋の紋章を掲げさせ接近を命じた。相手船団から、

「我等、新羅の巡視船でござる。どちらの国の船団か、何処へ行かれるのか」

 弾は中臣の士官に音声を上げさせた。

「我等、秦王国改め俀国の交易船団でござる。貴国が宜しければ交易をいたしたい。我は東表国を建国したエビス王家の裔の中臣の士官でござる。船団長は大和平群の長の弾でございます。昨秋、琉球に行った折、尚家の裔を預かって参った故、三つ巴の紋章も掲げましてござる」

「それでは、金城の王宮と連絡を取ります故、最寄りの浦項の港に入港されたい」

 浦項の港に入港した弾の訪問団は翌々日、都の金城に入港し新羅第二十六代の眞平王に拝謁が許された。

「弾殿、俀国は筑紫倭国を駆逐したそうじゃな」

「昨夏、筑紫に侵攻いたしまして、首尾よく制圧ができました」

「それは上々、祝着であった。我が国も殖産振興、富国強兵に努め領土拡大に邁進しておる。目前の敵、百済の兄弟国である筑紫倭国の衰退は喜ばしい。俀国天子に祝詞を申し上げる」

「戻り次第、お伝えをいたします」

「中臣の士官が音声を上げたそうじゃが」

「貴国の貴族階層に同胞が居られると仄聞いたしました」

「隣国の金官加羅が滅んだ折、その王侯貴族を我が国に収容している。その中には中臣の血を受け継いで者がいると承知している。その若手官僚の一人に合わせてあげよう」

「ありがとうございます」

「三つ巴の紋章を掲げたそうじゃが」

「昨秋、琉球に交易に参りました者が、尚家の若者の見聞を広めるために預かり、此度は連れ参りましたので、尚家の紋章の三つ巴を掲げました」

「三つ巴の紋章は新羅の紋章だ、濫りに使われるな、尚家もインドのコーサラ国に縁があるのであろう、此度は許そう」

「お言葉、痛み入ります」

「交易に来たそうじゃな」

「此度は、その許しを得る挨拶と思うて参りました」

「して何を持参いたした」

「昨秋収穫いたしました筑紫の新米と飛鳥で織りました絹織物と琉球交易で得ました飾り細工に使います夜光貝と木工に使いますアカギの角材等を持参いたしました」

「左様か近々、中国を統一した隋との交易を始める予定じゃ、献上品に加えよう。次に来た時は鉄を進ぜよう」

「日出処の天子」24

 秋が深まり、三郎と博麻呂は新米と絹織物を積んで博多湾から末盧の半島をを回り平戸と五島の間を南下、薩摩、屋久島、奄美の島々を経由して琉球の要、首里の泊港に入港。港の官吏に東日流の安倍博麻呂を案内人に俀国使が交易に訪れたと申し入れた。

 連絡に行った役人が戻り博麻呂達に伝えた。

「キキタエ様がお会いになります。宮殿にお上がり下さい」

 三郎と博麻呂は新米と反物を小舟に積み替え安里川を遡り宮殿に昇った。宮殿はニライカナイ信仰で西向きに開かれ、泊港が手に取る様に眺められた。扶座して待つこと暫し、白髪の婆々が白の神官装束に身を包んで出座した。

「はるばる見えられた。俀国は如何なる国か」

 三郎が軽く叩頭し、

「東表国から筑紫の吉野ヶ里の割譲を受けたシメオンの大国主命の後継ぎが大和に築いた秦王国を継承したレビの大王の二代目が周芳の柳井水道に遷都し俀国を名乗り天子足庭号しております。初代大国主様の委奴国が扶余の北倭軍に攻められた折、長髄彦様が矢面に立たれ、お助け頂きました。その縁で此度は、筑紫の奪還に東日流の安倍博麻呂殿が参軍され、更には琉球訪問の案内に立って頂けました。我は足庭の弟の三郎で御座います」

「安倍博麻呂殿、長の航海ご苦労様でした。長髄彦の裔は如何しておろうか」

「荒吐五王国の纏めに就かれております」

「東日流に帰還したら、男の子を琉球に戻して下されと伝えて下さらんかな。王家の再興に相応しい者が中々現れず困っております。隋という国が中国を統一して、我らにも朝貢を促しており、対処する人材が居りませぬ」

「必ずや、お伝えいたします」

「三郎殿、足庭様にお伝え下され。琉球は今、隋の脅威に曝されておりますと」

「承知いたしました。此度は筑紫で収穫した新米と飛鳥から絹織物をお持ちいたしました。ご受納下さい。来春には別の隊が高句麗になどへ交易に参ります」

「おうそうであった、交易で見えられたのでしたな。齢を取ると気が急いて困ったものじゃ。飾り細工に使う夜光貝と木工に使うアカギの角材を持ち帰って頂こうかな。それと、高句麗に行かれるのであれば尚家の若者を連れて行って下され」

「承知いたしました」

「今宵は鄙の料理でお寛ぎ下され。我は出ぬが歌垣を催すゆえ兵士も水夫も皆呼ばれよ」

「日出処の天子」23

 筑紫倭国の殆どを平定し、肥後多婆羅国の制圧は葛城隊や身狭隊と弾が率いた河野水軍に任せ、春日の本営に帰還した足庭は新体制を構築する人事配置を発令した。

 奪還した竹斯国の王には足庭の長男である太子を任命。東表国を豊の国と改め足庭の弟の次郎を王に任命、出雲国の王には足庭の次男を任命。播磨国の王には次郎の長男を任命。大和の秦王国の王には三郎の長男を任命。新都の周芳国は足庭の直轄地とし、天子となった足庭が全体を統率することとした。

 足庭は平群の弾と久し振りに酒を酌み交わした。

「弾殿、此度は数々の尽力、厚く御礼申し上げる」

「何を改まって、礼を言わねばならんのは我のほうじゃ。存分に活躍の場を与えてくれて、息子達に自慢ができる」

「弾、言い難いのじゃが、今少し尽力して頂けないか」

「水臭いの、何なりと」

「高句麗に渡って下さらんか」

「それはまた大儀な、毒食はば皿までじゃ共に祖先が過ごした所縁の地、承知した」

「交易と外交に本腰を入れようと思うてな、琉球には三郎と東日流隊に行って貰うつもりじゃ」

「それでは、我には坂上隊を付けて下さらんか」

「承知した、坂上隊に指示を出しまする。早急に渡航船を作りましょう。半島の東側を北上するとなれば季節風が納まる来春に出立されるのが宜しかろうと存ずる」

「我も急ぎ渡航船の準備に掛かろう」

「それと、新羅の沿岸を通過されるので、念のため新羅の王族達と同族の蘇我と中臣の然るべき者を同乗させましょう。それに、高句麗を出て既に数百年が経ちました故、土木技術や天文学が進歩しているやも知れません、石工の若者と天文学者を一緒に連れて行って下され」

 足庭は翌日、三郎と東日流隊々長安倍博麻呂を招き、宴を催した。足庭は博麻呂に、

「安倍殿、此度は遠路、ご参軍を賜り厚く御礼申し上げます」

「何の、わが祖、琉球狗奴国王長髄彦様と初代大国主様の頃からの深い誼でござる」

「本日は細やかな宴でござるが、まあ、一献挙げて下され。三郎殿にも苦労掛けましたな。すっかり海の男に馴染んでおる。まあ、一献」

「安倍殿や弾殿の良い手本がございました」

 足庭が、

「処で、安倍殿、今も琉球と行き来は御座るのかな」

「琉球に残った狗奴国の多くの人々は日向の安羅国や薩摩、大隅を奪って南九州に進出しましたので疎遠になっております」

「安倍殿、お願いがござる。三郎と一緒に琉球に行って下さらんか、交易を盛んにして、一層の国力充実を図る所存でござる」

「事のついでと言っては何でござるが、此処まで来て琉球に寄らずに帰るのも剛腹でござる。喜んで三郎殿の道案内をいたしましょう」

「それは、ありがたい。三郎ご苦労じゃが安倍殿と琉球に行って下され」

 秋晴れの好日に、弾は末盧国菜畑の棚田に兵を引き連れ、鋤、鍬を担ぎ、鎌を手に段丘を上った。

「菜畑の長殿、稲刈りを手伝いに参った。鋤、鍬も持って来ましたぞ」

「これは、これは、平群の長殿、似合いまするな」

 筑紫中の稲穂が頭を垂れ、各地で稲刈りが始まり、駐留した俀国の各隊は取入れを手伝い、およそ五分の一緩やかな割合で新米を徴収した。末盧国は菜畑の里を除き末盧国の治世を尊重した。

「日出処の天子」22

 平成二十四年五月、上雉大学古代史サークルのメンバーが恒例の学園祭のテーマを話し合っていた。西園寺が口火を切り、

「島津、我ら最後の学園祭になるな、去年は秦王国を取り上げたけど、次のエポックメーキング的な出来事は何になるかな」

 島津が躊躇なく、

「白村江の戦い」

 坂上が、おずおずと、

「どんな字を書くんですか、去年、伺った気がしますが、どんな戦争なんですか」

 島津が、間髪を入れず、

「馬鹿野郎。その時、なんで調べなかったの、『白い村の江』と書いて『ハクスキノエ』と読まれている。極東の古代史上最大のイベント。西暦六六三年、倭国と百済遺民連合軍対唐と新羅連合軍の決戦だよ」

 麗華が申し訳なさそうに、

「場所は何処なんですか」

「現在の、ソウル南西の錦江の河口で戦われた。神武と卑弥呼が創った倭王朝の終焉の舞台でもある。唐と新羅連合軍が勝利し、極東は唐と新羅の二強時代を迎えることに、百済は三年前の六百六十年に唐と新羅の連合軍の攻撃を受け滅亡し王都泗沁城の王宮に残された、卑弥呼の率いた公孫氏フェニキア系イカッサル族と神武の率いたウガヤ王朝伯族の気位の高い官女三千人が辱めを受けるのを嫌い、錦江を望む絶壁から次々と身を投げ、その様子が鮮やかな花々が落ちて行く様であったと、後に朱に染まった岩々を落花岩と名付けた言い伝えられているんだ」

 美佳が割り込んで、

「誇り高きフェニキア人は白村江の戦いから遡ること凡そ七百年前のBC百四十六年地中海でフェニキア人の海洋国家カルタゴがローマとの戦いに敗れ、カルタゴの丘に残った五万人が降伏を申し出る中、一部のフェニキア人は神殿に立て籠もり、尚も徹底抗戦し最後の戦いを挑んだのよ、やがて神殿は炎上し、多くのカルタゴのフェニキア人は身を投じカルタゴは終焉を迎えたそうよ」

 西園寺が付け加えて、

「落下岩の悲劇はフェニキアの流れを汲むインドの騎士団クシャトリアをルーツとする、戦勝国新羅の外人傭兵部隊花郎軍団が東表国エビス王家中臣氏の末裔である金庾信花郎長官に率いられ中臣の故地、宇佐八幡に進駐、奈良飛鳥の秦王国解体戦の中核を担い勝利するも新羅占領政権の崩壊により関東地方に落ち延び逼塞、後に源氏武士団の中核となり戦国時代を迎え敗れた時は妻女達が城の炎上と共に自決する魁となってしまったんだ」

 島津が更に、

「白村江の戦いに戦勝した唐・新羅連合軍は筑紫に二千の兵力で進駐、凡そ千二百年後の太平洋戦争終戦時、マッカーサーは二千人で厚木に進駐したんだ」

「日出処の天子」21

 足庭達は吉野ケ里で野営し、翌朝、更に西へ向かい小城を目指した。昼前、背振山地沿いに出した斥候が戻り、末盧上陸部隊の坂上隊が末盧川を遡り多久の里に到着したことと小城の里に末盧国の王族が入里していると報告した。足庭は坂上隊に伝令を出し、夕刻前に小城の里を東西から囲う旨、指示した。

夕刻前、足庭達の本隊は小城の里の東側に陣取りカゴメ紋の幡を掲げた。坂上隊は西側山地からカゴメ紋の幡を掲げた。暫く後、身狭隊の隊長に音声を上げさせた。

「我ら秦王国改め俀国の連合軍でござる。末盧国は古、東表国を作った人々と同じアラビア海のメルッハから渡来されたと聞き及びます。我等は東表国から吉野ヶ里の割譲を受けた大国様の裔に当たります十四代様から秦王国を引き継ぎました。末盧国と友好的な関係を結びたく存ずる」

 暫くして、小城の里に白旗と蛇神・トウビョウの幡が掲げられ、

「我ら末盧国は俀国に敵対する積りはござらぬ。末盧国の本領安堵を約束して下されば協力いたす」

 足庭は身狭隊の隊長に本領安堵応諾の音声を上げさせた。

 小城の里は開門され、足庭は入里し、末盧国の王族との面会に臨んだ。

「明日、坂上隊に末盧国の久里の王宮に送らせます故、今宵はこの小城の里で昔話を聞かせて下され」

「足庭殿と、お呼びして宜しいかな。我等の祖はアラビア海でメルッハ国を建てていたそうじゃが、フェニキア人やエブス人達とインドに入り、ソロモンのアンガ国、アルワドのコーサラ国と共に我等はマツラ国を作り、インド十六国時代の一翼を担っていたそうじゃ」

「何時頃の事でござるかな」

「ソロモンのタルシシ船が走り回った、二千年程前の事じゃそうじゃ。その頃にタルシシの採鉱船団が国東半島の重藤海岸に大量の砂鉄層を発見して一大製鉄基地に発展したそうじゃ」

「それが、東表国建国の礎になるわけですな」

「それで、我等の先祖も海を渡り末盧国を建てたのじゃ」

 翌朝、足庭は末盧の王族を坂上隊に送らせ、南に向きを変え、有明海を目指して進んだ。昼前に柳川の里が見え、有明海が一望できる場所に到達した。有明海には既に弾が率いる平群隊、東日流隊、河野隊などの船団がカゴメ紋の幡を掲げて浮かんでいた。

 足庭は船を調達し筑後川を下らせ、弾達に柳川の里を海上から封鎖するよう伝令した。

 足庭は陸側から柳川の里を封鎖し、全隊にカゴメ紋の旗を掲げさせ、身狭隊の隊長に音声を上げさせた。

「我等は大国主様の末裔に連なる秦王国改め俀国の連合軍ござる。友好的な関係を結びたく存ずる。ご開門願いたい」

 柳川の里から声が上がり、

「我らはその昔、猿田彦様の博多伊勢国の民でゼブルン族の末裔でござる。本領安堵を約束して下されば、協力いたしまする」

 足庭は葛城の太子に船の帆にカゴメ紋とブルゾン族の幡を掲げさせ、声を上げさせた。

「我等もゼルブン族の末裔で猿田彦様の博多伊勢国から大和に参り葛城の地を領有しております葛城の太子でござる。ご安堵あれ」

 柳川の里から歓声が上がり開門された。足庭達は入里し柳川の里の長達と会談に臨んだ。

「柳川の長殿、開門頂きありがとうござる。俀国の天子、足庭でござる。大和にはゼルブン族の葛城氏だけでなくイカッサル族の三輪氏もおります。猿田彦の伊雑宮には先代の時から、我等の娘を嫁がせて親戚付合いをしてござる。ご安堵あれ」

「猿田彦様の伊雑宮は何処にござるか」

「大和盆地の南東にあり志摩半島と言う絶景の地にござる。先代の広庭の命で妹の嫁入りの使者に参りました。処で長殿の祖先は、なぜ柳川に入られたのじゃ」

「それがのう、博多伊勢国猿田彦の二代様が九州一円にヘレニズム文化と太陽神を広める巡行をされるに当り、我等は船で博多湾から有明海に回り、この地の安全確保に先行しましたのじゃ、その後はご存知と思いますが、シメオン族の大国主様が東表国から吉野ヶ里の割譲を受けられ委奴国を建国された後、博多の猿田彦様の太陽神殿を急襲し徹底破壊され、博多伊勢国の皆様は東遷され、我等はこの地に取り残されたのじゃ。その後、北扶余からニギハヤヒ様が天の鳥船に乗って、同族の先達である陜父様が開いた肥後の多婆羅国に参入された、我等はその物部軍団に組み込まれました。追う様に東扶余からイワレヒコ様が北倭軍を率いて攻めて参った。我等、物部軍団と共に決死の覚悟で戦い、北倭軍を撃退したのじゃが、東表国のエビス王家が仲介に入り、ニギハヤヒ様とイワレヒコ様は手打ちをされた。我等はそのまま、この地を安堵されましたのじゃ」

「そうでござったか、我等も大国主様の十四代様からの引継ぎでヘレニズム文化の継承に努めて参りました。それから、今、長殿がお話になったニギハヤヒ様とイワレヒコ様が北扶余の王権争いに決着を付けられた様に、大国主様のシメオン族と猿田彦様のガド族の融和がなる様に願ってござる。秦帝国での焚書坑儒事件以来八百年の長きに亘る抗争でござる」

「さすれば、我等も心置きなく仲様できまするな」

「ところで長殿、何かお困りのことはありませぬか」

「このところ、農具の入手が難しくなってきました。ニギハヤヒ一族は製鉄部族でござるが、砂鉄や鉄鉱石枯渇して参ったようじゃ」

「筑紫は何処に参っても鉄の農具が手に入らぬと嘆いておられた。我等、俀国は総力を挙げて鉄の農具の供給に努めまする故、仲ようして下され。兵站にも協力して下され」

「日出処の天子」20

 博多湾から上陸した足庭達は掃討巡察を開始し、安羅大伴王家が脱出し空っぽになった春日の王宮を接収し筑紫の本営とした。直ちに、他の上陸部隊に伝令を出し、状況連絡を求めた。翌日には、弾の末盧上陸部隊から返令が届いた。

「末盧国の久里にある無人の王宮を接収。沿岸の農民、菜畑の長と接触、鉄の農具類の提供を前提に、協力合力の了承を得た故、便宜供与を願いたい。末盧国の主力は脱出し有明海を目指し、少数の末盧衆が唐津湾を出て西へ向かったとの情報を得た故、掃討の必用もありうる。次の作戦司令の連絡を待つ」

 一日遅れで、遠賀川上陸部隊飛鳥隊の太郎から返令があり、二日遅れで豊前上陸部隊の東漢の太子から返令が届いた。何れも、然したる抵抗もなく占領接収を終えたとの報告であった。

 足庭は各部隊に引き続き地域の農民達に対する慰撫巡察を為し食糧確保、治安維持の任の継続を指示すると共に、筑紫平野の掃討作戦を発令した。

 博多平野から筑紫平野に抜ける、背振山地と三郡山地に挟まれた大宰府の南に前進基地を構築し、地上部隊主力軍の合流出発地とした。

 遠賀川上陸部隊から三輪隊と葛城隊に直方平野から三郡山地を越えての参集を指示。唐津上陸部隊からは坂上隊に末盧川沿いを遡り筑紫平野の西端から侵入を指示。博多上陸部隊からは、三郎の出雲隊に四百年前、磐余彦の北倭軍が辿った那珂川を遡り背振山地越え、吉野ヶ里の北から筑紫平野への侵入を指示した。

 豊前上陸部隊の蘇我隊と呉原隊には宇佐八幡から国東半島の付け根部を縦断し、杵築から重藤海岸の慰撫巡察を命じた。蘇我隊には中臣氏も参加しており、両氏は四百年振りの里帰りとなった。寒川隊、塩飽隊、直島隊には海上からの支援を命じた。

 足庭は弾の平群隊と東日流隊、河野隊と宗像隊には末盧半島を大回りして有明海に入り制海権を握るよう指示し、途中、末盧衆などの掃討若しくは慰撫も併せて命じた。

 足庭は筑紫平野掃討作戦を発令した七日後、大宰府の南に築いた前進基地から、参集した三輪隊、葛城隊と共に筑紫平野の侵攻を開始した。三輪氏の故郷、三輪は指呼の距離あった。

 カゴメ紋の幡を掲げた、足庭達の主力部隊が南下すると直ぐに三輪の里に白い旗が掲げられ、カゴメ紋と月と星の幡印も掲げられた。三輪の太子が、

「大王様、我らイカッサルの紋章、月と星印です。残留して生き残った者達が歓迎しております」

 足庭は、

「幸先が良いのう。三輪殿、月と星印の紋章を掲げて進んで下され」

 互いに声が届く位置に来て、三輪の太子が、

「我等、秦王国改め俀国の連合軍でござる。我は三輪の太子でござる」

 その音声に、三輪の里から、

「よくぞ、お帰りになられた」。歓迎いたしまする」

 足庭達は三輪の里に兵站の合力を頼み、農具の供給を約して、筑紫平野を南から西へ向きを変え、東漢本隊を中央に右に壬生隊、川原隊、左に三輪隊、葛城隊の五縦列で進むと共に大伴王家の反撃に備え物見隊を三輪より東に位置する日田への入り口に置いた。

 足庭達が鳥栖の里に掛かり農民の懐柔説得に成功し野営の準備に入る頃、背振山地沿いに出した斥候が戻り、吉野ヶ里の後背の坂本峠に三郎の出雲隊が到着したことを報告した。

 足庭の主力部隊は翌早朝、更に西に向かい吉野ヶ里集落の南側に展開しカゴメ紋の幡を一斉に掲げた。呼応して北側の背振山地に展開した三郎の出雲隊も一斉にカゴメ紋の幡を掲げた。暫くして吉野ヶ里の集落内に白い旗とカゴメ紋の幡と剣と盾を描いたシメオンの幡が掲げられた。

 足庭は身狭隊の隊長に音声を上げさせると、集落内から歓声と応諾があり開門された。

 足庭達は集落内に入り、長に声を掛けた。

「長殿、よくぞ持ち堪えられた」

「いや、安羅の兵は急いで通り過ぎた故、何もせなんだ」

「ところで、長殿の先祖は初代の大国主様の頃に渡来されたのかな」

「そうでござる、秦帝国が崩壊してシメオン族が漂流の民となり半島を南下しきった時、東表国のエビス王家から、この吉野ヶ里の割譲を受け渡来し、大国主様を推戴し委奴国を建国したと伝え聞き、江南に避難していたシメオンの王族と一緒に我ら江南の苗族は吉野ヶ里に渡って参ったと伝えられておりまする」

「それから、七百年の長きに渡り、この吉野ヶ里を維持された」

「言い伝えによれば、この吉野ヶ里が北倭軍と公孫軍に挟撃され委奴国の人々は三年間、勇敢に戦いましたが初代の大国主様が磐余彦の北倭軍の流れ矢に当り、亡くなられて委奴国の人々は戦意を喪失し、土師氏達は志賀島から日本海を出雲に向かい、二代様は瀬戸内を東遷されたそうじゃ」

「その後はどうなりました」

「勝利した磐余彦の北倭軍は長躯して肥後の多婆羅国のニギハヤヒ軍団に挑み、戦いに敗れるも東表国の仲介で同盟した後、磐余彦は博多に伊都国を建国し、公孫氏の宗女の卑弥呼を後妻に迎えたそうじゃ。その後、磐余彦が亡くなり、大乱になり掛けましたが、諸国の王が図り邪馬壱国を建国し卑弥呼を女王に推戴したそうじゃ。卑弥呼は狗奴国との戦いに追われる中、亡くなり、宗女の壱与が直ちに即位し、狗奴国との戦いを避け、対馬に渡り、倭人諸国の祭祀地、任那を建てたそうじゃ」

「その後の倭人諸国の動向は我らも聞いておりまする。長殿、何かお困りのことがありませぬか」

「鍬や鋤などの鉄の農具の入手が難しくなり頭を痛めておりまする」

「何処も、その様じゃ、我ら俀国は総力を上げて鉄の農具の供給を果たします故、我等に協力下され、兵站への合力を頼みまする」

「日出処の天子」19

 長門の深川湾で待つ、三郎に送った伝令の復命を確認し、宗像、壱岐、対馬からの復命が届いた翌日、足庭は全船団に発進を号令した。

 第一船団先頭の弾達が馬韓海峡を抜けた所で、深川湾を出て哨戒巡察する三郎の出雲隊と合流し彦島で船泊した。

 翌未明、第一船団は弾の平群隊を先頭に響灘を西に向かった。空が白む頃、黒崎鼻と地島の間に船影を見付け、弾はカゴメ紋の幡を掲げさせた。河野衆と同じ旗印掲げた宗像衆の船であった。弾は船団を接近させ、

「我等は秦王国、改め俀国の連合船団でござる。我は平群の長の弾でござる」

「我は宗像の長でござる。途中まで水先案内を務めまする」

「これは忝い、宜しく頼む」

 宗像衆は志賀島を過ぎ糸島半島の鼻先迄、船団を先導した後、船を返し河野隊の後尾についた。平群隊は更に西に進み、正午過ぎ、唐津湾沖に達しカゴメ紋の幡を掲げた。玄界灘と響灘と豊前の瀬戸内側に千艘を越える軍船が並び一斉にカゴメ紋の幡を掲げ昼餉を取った。

 その頃、筑紫の人々は沖合の異変に右往左往していた。大伴王家は額田王を交え鳩首協議を始めていた。重臣の多治比広手が、

「女王様、物見の報告に由れば、玄界灘も響灘も数え切れぬほどのカゴメ紋が翻っており、秦王国改め俀国の連合船団と称しておるそうです。そうであれば、彼等は三百年を掛けて筑紫に戻ってきており、そうして退けと威圧している様でござる。此処は我等も捲土重来を期し、一旦は撤退するのが得策かと存じまする。十年もすれば何かの綻びがありましょう」

「判った、直ちに南遷する」

 慌ただしく大伴王家は額田王を守り日田から九重山系に向かい、別働隊が久留米から有明海に向かった。

 連合船団は大伴王家の移動開始を斥候に確認させ、陽が落ちる前に上陸を始めた。平群隊、坂上隊、檜隈隊、東日流隊、河野隊は唐津湾から上陸。東漢本隊、三郎の出雲隊、身狭隊、川原隊は博多湾から上陸。東漢の太郎の飛鳥隊、三輪隊、葛城隊、和爾隊、太秦隊は遠賀川河口付近から上陸。東漢太子隊、呉原隊、蘇我隊、寒川隊、塩飽隊、直島隊、笠岡隊は豊前の瀬戸内沿岸から上陸し野営の準備に入ると共に、警戒の周辺巡察を開始した。

 翌朝、弾は自ら威力巡察に出た。唐津湾の沿岸は見事な棚田が巡っており、緑のままの稲穂の帯が連なっていた。段丘を上り、草取り中の立派な農民に弾は気さくに声を掛けた。

「精が出ますの、我等は瀬戸内の一番奥の大和から参った秦王国改め俀国の連合船団で我は平群の長を務める、弾と申しまする。この、菜畑の長はどちらに居られますかの」

「わしが菜畑の長じゃ。昨日から、海が賑やかだの」

「これは、失礼をば、いたしました。どの辺りが末盧国ですかな」

「ここから見える範囲がそうじゃ」

「王宮は何処にござるか」

「あれに見える末盧川の上流の久里にござるが、昨日からバタバタしておった故、大方、有明海に落ちたかも知れぬ」

「そうでござったか、我等末盧国に駐留いたす故、菜畑の長殿、宜しゅう頼みまする」

「我等、千五百年前から、この地を耕す苗族の裔じゃ。最初はエビス王家、次がシメオン王家、その次がウガヤ王家と代わりましたがの」

「我の平群も苗族の裔の長が耕してござる。聞けば、遥か南のバンチェンからメコンを下りオケオの港から渡って来たと申しておる」

「わし等も同じじゃ、バンチェンから参ったと言い伝えられておる。大和に入った苗族は我等より五百年ほど遅く渡来したと、運んだフェニキア船から伝えられておる」

「秦王国は大国主様が代々治めてこられたが十四代様に男子が出来なんだで、東漢の広庭様が継がれて当代は二代目の足庭様でござる。協力下され。兵站にも合力下され」

「平群の長殿、我等は今、鉄製品の入手に苦労しておる。国東の重藤の砂鉄がのうなって、東表国のエビス王家の多くは鉄資源を求めて海の向こうの半島に渡り、残った人達も大国様が亡くなられ二代様の東遷の折、付いて行かれたそうじゃ。鉄製品の供給を約束して下されば応じましょう」

「それは、お困りであろう。我等の務めは常に殖産振興が重要でござる。今、砂鉄を産する出雲の部隊も一緒に参って居る。大王様に相談して供給に便宜を図ろう」

「我等の祖先が遥かバンチェンからこの地に渡来したのはフェニキア人が運航するタルシシの採鉱船団が国東半島の重藤に大量の砂鉄層を発見しヒッタイト人がタタラの製鉄基地を築き、エブス人が殷の地に鉄製品の供給を始めたと、フェニキア人が我等の先祖に伝えたからじゃ。鋤や鍬を始めとして鉄資材が無ければ水田稲作農業は出来んでのう」