「日出処の天子」23

 筑紫倭国の殆どを平定し、肥後多婆羅国の制圧は葛城隊や身狭隊と弾が率いた河野水軍に任せ、春日の本営に帰還した足庭は新体制を構築する人事配置を発令した。

 奪還した竹斯国の王には足庭の長男である太子を任命。東表国を豊の国と改め足庭の弟の次郎を王に任命、出雲国の王には足庭の次男を任命。播磨国の王には次郎の長男を任命。大和の秦王国の王には三郎の長男を任命。新都の周芳国は足庭の直轄地とし、天子となった足庭が全体を統率することとした。

 足庭は平群の弾と久し振りに酒を酌み交わした。

「弾殿、此度は数々の尽力、厚く御礼申し上げる」

「何を改まって、礼を言わねばならんのは我のほうじゃ。存分に活躍の場を与えてくれて、息子達に自慢ができる」

「弾、言い難いのじゃが、今少し尽力して頂けないか」

「水臭いの、何なりと」

「高句麗に渡って下さらんか」

「それはまた大儀な、毒食はば皿までじゃ共に祖先が過ごした所縁の地、承知した」

「交易と外交に本腰を入れようと思うてな、琉球には三郎と東日流隊に行って貰うつもりじゃ」

「それでは、我には坂上隊を付けて下さらんか」

「承知した、坂上隊に指示を出しまする。早急に渡航船を作りましょう。半島の東側を北上するとなれば季節風が納まる来春に出立されるのが宜しかろうと存ずる」

「我も急ぎ渡航船の準備に掛かろう」

「それと、新羅の沿岸を通過されるので、念のため新羅の王族達と同族の蘇我と中臣の然るべき者を同乗させましょう。それに、高句麗を出て既に数百年が経ちました故、土木技術や天文学が進歩しているやも知れません、石工の若者と天文学者を一緒に連れて行って下され」

 足庭は翌日、三郎と東日流隊々長安倍博麻呂を招き、宴を催した。足庭は博麻呂に、

「安倍殿、此度は遠路、ご参軍を賜り厚く御礼申し上げます」

「何の、わが祖、琉球狗奴国王長髄彦様と初代大国主様の頃からの深い誼でござる」

「本日は細やかな宴でござるが、まあ、一献挙げて下され。三郎殿にも苦労掛けましたな。すっかり海の男に馴染んでおる。まあ、一献」

「安倍殿や弾殿の良い手本がございました」

 足庭が、

「処で、安倍殿、今も琉球と行き来は御座るのかな」

「琉球に残った狗奴国の多くの人々は日向の安羅国や薩摩、大隅を奪って南九州に進出しましたので疎遠になっております」

「安倍殿、お願いがござる。三郎と一緒に琉球に行って下さらんか、交易を盛んにして、一層の国力充実を図る所存でござる」

「事のついでと言っては何でござるが、此処まで来て琉球に寄らずに帰るのも剛腹でござる。喜んで三郎殿の道案内をいたしましょう」

「それは、ありがたい。三郎ご苦労じゃが安倍殿と琉球に行って下され」

 秋晴れの好日に、弾は末盧国菜畑の棚田に兵を引き連れ、鋤、鍬を担ぎ、鎌を手に段丘を上った。

「菜畑の長殿、稲刈りを手伝いに参った。鋤、鍬も持って来ましたぞ」

「これは、これは、平群の長殿、似合いまするな」

 筑紫中の稲穂が頭を垂れ、各地で稲刈りが始まり、駐留した俀国の各隊は取入れを手伝い、およそ五分の一緩やかな割合で新米を徴収した。末盧国は菜畑の里を除き末盧国の治世を尊重した。

「日出処の天子」22

 平成二十四年五月、上雉大学古代史サークルのメンバーが恒例の学園祭のテーマを話し合っていた。西園寺が口火を切り、

「島津、我ら最後の学園祭になるな、去年は秦王国を取り上げたけど、次のエポックメーキング的な出来事は何になるかな」

 島津が躊躇なく、

「白村江の戦い」

 坂上が、おずおずと、

「どんな字を書くんですか、去年、伺った気がしますが、どんな戦争なんですか」

 島津が、間髪を入れず、

「馬鹿野郎。その時、なんで調べなかったの、『白い村の江』と書いて『ハクスキノエ』と読まれている。極東の古代史上最大のイベント。西暦六六三年、倭国と百済遺民連合軍対唐と新羅連合軍の決戦だよ」

 麗華が申し訳なさそうに、

「場所は何処なんですか」

「現在の、ソウル南西の錦江の河口で戦われた。神武と卑弥呼が創った倭王朝の終焉の舞台でもある。唐と新羅連合軍が勝利し、極東は唐と新羅の二強時代を迎えることに、百済は三年前の六百六十年に唐と新羅の連合軍の攻撃を受け滅亡し王都泗沁城の王宮に残された、卑弥呼の率いた公孫氏フェニキア系イカッサル族と神武の率いたウガヤ王朝伯族の気位の高い官女三千人が辱めを受けるのを嫌い、錦江を望む絶壁から次々と身を投げ、その様子が鮮やかな花々が落ちて行く様であったと、後に朱に染まった岩々を落花岩と名付けた言い伝えられているんだ」

 美佳が割り込んで、

「誇り高きフェニキア人は白村江の戦いから遡ること凡そ七百年前のBC百四十六年地中海でフェニキア人の海洋国家カルタゴがローマとの戦いに敗れ、カルタゴの丘に残った五万人が降伏を申し出る中、一部のフェニキア人は神殿に立て籠もり、尚も徹底抗戦し最後の戦いを挑んだのよ、やがて神殿は炎上し、多くのカルタゴのフェニキア人は身を投じカルタゴは終焉を迎えたそうよ」

 西園寺が付け加えて、

「落下岩の悲劇はフェニキアの流れを汲むインドの騎士団クシャトリアをルーツとする、戦勝国新羅の外人傭兵部隊花郎軍団が東表国エビス王家中臣氏の末裔である金庾信花郎長官に率いられ中臣の故地、宇佐八幡に進駐、奈良飛鳥の秦王国解体戦の中核を担い勝利するも新羅占領政権の崩壊により関東地方に落ち延び逼塞、後に源氏武士団の中核となり戦国時代を迎え敗れた時は妻女達が城の炎上と共に自決する魁となってしまったんだ」

 島津が更に、

「白村江の戦いに戦勝した唐・新羅連合軍は筑紫に二千の兵力で進駐、凡そ千二百年後の太平洋戦争終戦時、マッカーサーは二千人で厚木に進駐したんだ」

「日出処の天子」21

 足庭達は吉野ケ里で野営し、翌朝、更に西へ向かい小城を目指した。昼前、背振山地沿いに出した斥候が戻り、末盧上陸部隊の坂上隊が末盧川を遡り多久の里に到着したことと小城の里に末盧国の王族が入里していると報告した。足庭は坂上隊に伝令を出し、夕刻前に小城の里を東西から囲う旨、指示した。

夕刻前、足庭達の本隊は小城の里の東側に陣取りカゴメ紋の幡を掲げた。坂上隊は西側山地からカゴメ紋の幡を掲げた。暫く後、身狭隊の隊長に音声を上げさせた。

「我ら秦王国改め俀国の連合軍でござる。末盧国は古、東表国を作った人々と同じアラビア海のメルッハから渡来されたと聞き及びます。我等は東表国から吉野ヶ里の割譲を受けた大国様の裔に当たります十四代様から秦王国を引き継ぎました。末盧国と友好的な関係を結びたく存ずる」

 暫くして、小城の里に白旗と蛇神・トウビョウの幡が掲げられ、

「我ら末盧国は俀国に敵対する積りはござらぬ。末盧国の本領安堵を約束して下されば協力いたす」

 足庭は身狭隊の隊長に本領安堵応諾の音声を上げさせた。

 小城の里は開門され、足庭は入里し、末盧国の王族との面会に臨んだ。

「明日、坂上隊に末盧国の久里の王宮に送らせます故、今宵はこの小城の里で昔話を聞かせて下され」

「足庭殿と、お呼びして宜しいかな。我等の祖はアラビア海でメルッハ国を建てていたそうじゃが、フェニキア人やエブス人達とインドに入り、ソロモンのアンガ国、アルワドのコーサラ国と共に我等はマツラ国を作り、インド十六国時代の一翼を担っていたそうじゃ」

「何時頃の事でござるかな」

「ソロモンのタルシシ船が走り回った、二千年程前の事じゃそうじゃ。その頃にタルシシの採鉱船団が国東半島の重藤海岸に大量の砂鉄層を発見して一大製鉄基地に発展したそうじゃ」

「それが、東表国建国の礎になるわけですな」

「それで、我等の先祖も海を渡り末盧国を建てたのじゃ」

 翌朝、足庭は末盧の王族を坂上隊に送らせ、南に向きを変え、有明海を目指して進んだ。昼前に柳川の里が見え、有明海が一望できる場所に到達した。有明海には既に弾が率いる平群隊、東日流隊、河野隊などの船団がカゴメ紋の幡を掲げて浮かんでいた。

 足庭は船を調達し筑後川を下らせ、弾達に柳川の里を海上から封鎖するよう伝令した。

 足庭は陸側から柳川の里を封鎖し、全隊にカゴメ紋の旗を掲げさせ、身狭隊の隊長に音声を上げさせた。

「我等は大国主様の末裔に連なる秦王国改め俀国の連合軍ござる。友好的な関係を結びたく存ずる。ご開門願いたい」

 柳川の里から声が上がり、

「我らはその昔、猿田彦様の博多伊勢国の民でゼブルン族の末裔でござる。本領安堵を約束して下されば、協力いたしまする」

 足庭は葛城の太子に船の帆にカゴメ紋とブルゾン族の幡を掲げさせ、声を上げさせた。

「我等もゼルブン族の末裔で猿田彦様の博多伊勢国から大和に参り葛城の地を領有しております葛城の太子でござる。ご安堵あれ」

 柳川の里から歓声が上がり開門された。足庭達は入里し柳川の里の長達と会談に臨んだ。

「柳川の長殿、開門頂きありがとうござる。俀国の天子、足庭でござる。大和にはゼルブン族の葛城氏だけでなくイカッサル族の三輪氏もおります。猿田彦の伊雑宮には先代の時から、我等の娘を嫁がせて親戚付合いをしてござる。ご安堵あれ」

「猿田彦様の伊雑宮は何処にござるか」

「大和盆地の南東にあり志摩半島と言う絶景の地にござる。先代の広庭の命で妹の嫁入りの使者に参りました。処で長殿の祖先は、なぜ柳川に入られたのじゃ」

「それがのう、博多伊勢国猿田彦の二代様が九州一円にヘレニズム文化と太陽神を広める巡行をされるに当り、我等は船で博多湾から有明海に回り、この地の安全確保に先行しましたのじゃ、その後はご存知と思いますが、シメオン族の大国主様が東表国から吉野ヶ里の割譲を受けられ委奴国を建国された後、博多の猿田彦様の太陽神殿を急襲し徹底破壊され、博多伊勢国の皆様は東遷され、我等はこの地に取り残されたのじゃ。その後、北扶余からニギハヤヒ様が天の鳥船に乗って、同族の先達である陜父様が開いた肥後の多婆羅国に参入された、我等はその物部軍団に組み込まれました。追う様に東扶余からイワレヒコ様が北倭軍を率いて攻めて参った。我等、物部軍団と共に決死の覚悟で戦い、北倭軍を撃退したのじゃが、東表国のエビス王家が仲介に入り、ニギハヤヒ様とイワレヒコ様は手打ちをされた。我等はそのまま、この地を安堵されましたのじゃ」

「そうでござったか、我等も大国主様の十四代様からの引継ぎでヘレニズム文化の継承に努めて参りました。それから、今、長殿がお話になったニギハヤヒ様とイワレヒコ様が北扶余の王権争いに決着を付けられた様に、大国主様のシメオン族と猿田彦様のガド族の融和がなる様に願ってござる。秦帝国での焚書坑儒事件以来八百年の長きに亘る抗争でござる」

「さすれば、我等も心置きなく仲様できまするな」

「ところで長殿、何かお困りのことはありませぬか」

「このところ、農具の入手が難しくなってきました。ニギハヤヒ一族は製鉄部族でござるが、砂鉄や鉄鉱石枯渇して参ったようじゃ」

「筑紫は何処に参っても鉄の農具が手に入らぬと嘆いておられた。我等、俀国は総力を挙げて鉄の農具の供給に努めまする故、仲ようして下され。兵站にも協力して下され」

「日出処の天子」20

 博多湾から上陸した足庭達は掃討巡察を開始し、安羅大伴王家が脱出し空っぽになった春日の王宮を接収し筑紫の本営とした。直ちに、他の上陸部隊に伝令を出し、状況連絡を求めた。翌日には、弾の末盧上陸部隊から返令が届いた。

「末盧国の久里にある無人の王宮を接収。沿岸の農民、菜畑の長と接触、鉄の農具類の提供を前提に、協力合力の了承を得た故、便宜供与を願いたい。末盧国の主力は脱出し有明海を目指し、少数の末盧衆が唐津湾を出て西へ向かったとの情報を得た故、掃討の必用もありうる。次の作戦司令の連絡を待つ」

 一日遅れで、遠賀川上陸部隊飛鳥隊の太郎から返令があり、二日遅れで豊前上陸部隊の東漢の太子から返令が届いた。何れも、然したる抵抗もなく占領接収を終えたとの報告であった。

 足庭は各部隊に引き続き地域の農民達に対する慰撫巡察を為し食糧確保、治安維持の任の継続を指示すると共に、筑紫平野の掃討作戦を発令した。

 博多平野から筑紫平野に抜ける、背振山地と三郡山地に挟まれた大宰府の南に前進基地を構築し、地上部隊主力軍の合流出発地とした。

 遠賀川上陸部隊から三輪隊と葛城隊に直方平野から三郡山地を越えての参集を指示。唐津上陸部隊からは坂上隊に末盧川沿いを遡り筑紫平野の西端から侵入を指示。博多上陸部隊からは、三郎の出雲隊に四百年前、磐余彦の北倭軍が辿った那珂川を遡り背振山地越え、吉野ヶ里の北から筑紫平野への侵入を指示した。

 豊前上陸部隊の蘇我隊と呉原隊には宇佐八幡から国東半島の付け根部を縦断し、杵築から重藤海岸の慰撫巡察を命じた。蘇我隊には中臣氏も参加しており、両氏は四百年振りの里帰りとなった。寒川隊、塩飽隊、直島隊には海上からの支援を命じた。

 足庭は弾の平群隊と東日流隊、河野隊と宗像隊には末盧半島を大回りして有明海に入り制海権を握るよう指示し、途中、末盧衆などの掃討若しくは慰撫も併せて命じた。

 足庭は筑紫平野掃討作戦を発令した七日後、大宰府の南に築いた前進基地から、参集した三輪隊、葛城隊と共に筑紫平野の侵攻を開始した。三輪氏の故郷、三輪は指呼の距離あった。

 カゴメ紋の幡を掲げた、足庭達の主力部隊が南下すると直ぐに三輪の里に白い旗が掲げられ、カゴメ紋と月と星の幡印も掲げられた。三輪の太子が、

「大王様、我らイカッサルの紋章、月と星印です。残留して生き残った者達が歓迎しております」

 足庭は、

「幸先が良いのう。三輪殿、月と星印の紋章を掲げて進んで下され」

 互いに声が届く位置に来て、三輪の太子が、

「我等、秦王国改め俀国の連合軍でござる。我は三輪の太子でござる」

 その音声に、三輪の里から、

「よくぞ、お帰りになられた」。歓迎いたしまする」

 足庭達は三輪の里に兵站の合力を頼み、農具の供給を約して、筑紫平野を南から西へ向きを変え、東漢本隊を中央に右に壬生隊、川原隊、左に三輪隊、葛城隊の五縦列で進むと共に大伴王家の反撃に備え物見隊を三輪より東に位置する日田への入り口に置いた。

 足庭達が鳥栖の里に掛かり農民の懐柔説得に成功し野営の準備に入る頃、背振山地沿いに出した斥候が戻り、吉野ヶ里の後背の坂本峠に三郎の出雲隊が到着したことを報告した。

 足庭の主力部隊は翌早朝、更に西に向かい吉野ヶ里集落の南側に展開しカゴメ紋の幡を一斉に掲げた。呼応して北側の背振山地に展開した三郎の出雲隊も一斉にカゴメ紋の幡を掲げた。暫くして吉野ヶ里の集落内に白い旗とカゴメ紋の幡と剣と盾を描いたシメオンの幡が掲げられた。

 足庭は身狭隊の隊長に音声を上げさせると、集落内から歓声と応諾があり開門された。

 足庭達は集落内に入り、長に声を掛けた。

「長殿、よくぞ持ち堪えられた」

「いや、安羅の兵は急いで通り過ぎた故、何もせなんだ」

「ところで、長殿の先祖は初代の大国主様の頃に渡来されたのかな」

「そうでござる、秦帝国が崩壊してシメオン族が漂流の民となり半島を南下しきった時、東表国のエビス王家から、この吉野ヶ里の割譲を受け渡来し、大国主様を推戴し委奴国を建国したと伝え聞き、江南に避難していたシメオンの王族と一緒に我ら江南の苗族は吉野ヶ里に渡って参ったと伝えられておりまする」

「それから、七百年の長きに渡り、この吉野ヶ里を維持された」

「言い伝えによれば、この吉野ヶ里が北倭軍と公孫軍に挟撃され委奴国の人々は三年間、勇敢に戦いましたが初代の大国主様が磐余彦の北倭軍の流れ矢に当り、亡くなられて委奴国の人々は戦意を喪失し、土師氏達は志賀島から日本海を出雲に向かい、二代様は瀬戸内を東遷されたそうじゃ」

「その後はどうなりました」

「勝利した磐余彦の北倭軍は長躯して肥後の多婆羅国のニギハヤヒ軍団に挑み、戦いに敗れるも東表国の仲介で同盟した後、磐余彦は博多に伊都国を建国し、公孫氏の宗女の卑弥呼を後妻に迎えたそうじゃ。その後、磐余彦が亡くなり、大乱になり掛けましたが、諸国の王が図り邪馬壱国を建国し卑弥呼を女王に推戴したそうじゃ。卑弥呼は狗奴国との戦いに追われる中、亡くなり、宗女の壱与が直ちに即位し、狗奴国との戦いを避け、対馬に渡り、倭人諸国の祭祀地、任那を建てたそうじゃ」

「その後の倭人諸国の動向は我らも聞いておりまする。長殿、何かお困りのことがありませぬか」

「鍬や鋤などの鉄の農具の入手が難しくなり頭を痛めておりまする」

「何処も、その様じゃ、我ら俀国は総力を上げて鉄の農具の供給を果たします故、我等に協力下され、兵站への合力を頼みまする」

「日出処の天子」19

 長門の深川湾で待つ、三郎に送った伝令の復命を確認し、宗像、壱岐、対馬からの復命が届いた翌日、足庭は全船団に発進を号令した。

 第一船団先頭の弾達が馬韓海峡を抜けた所で、深川湾を出て哨戒巡察する三郎の出雲隊と合流し彦島で船泊した。

 翌未明、第一船団は弾の平群隊を先頭に響灘を西に向かった。空が白む頃、黒崎鼻と地島の間に船影を見付け、弾はカゴメ紋の幡を掲げさせた。河野衆と同じ旗印掲げた宗像衆の船であった。弾は船団を接近させ、

「我等は秦王国、改め俀国の連合船団でござる。我は平群の長の弾でござる」

「我は宗像の長でござる。途中まで水先案内を務めまする」

「これは忝い、宜しく頼む」

 宗像衆は志賀島を過ぎ糸島半島の鼻先迄、船団を先導した後、船を返し河野隊の後尾についた。平群隊は更に西に進み、正午過ぎ、唐津湾沖に達しカゴメ紋の幡を掲げた。玄界灘と響灘と豊前の瀬戸内側に千艘を越える軍船が並び一斉にカゴメ紋の幡を掲げ昼餉を取った。

 その頃、筑紫の人々は沖合の異変に右往左往していた。大伴王家は額田王を交え鳩首協議を始めていた。重臣の多治比広手が、

「女王様、物見の報告に由れば、玄界灘も響灘も数え切れぬほどのカゴメ紋が翻っており、秦王国改め俀国の連合船団と称しておるそうです。そうであれば、彼等は三百年を掛けて筑紫に戻ってきており、そうして退けと威圧している様でござる。此処は我等も捲土重来を期し、一旦は撤退するのが得策かと存じまする。十年もすれば何かの綻びがありましょう」

「判った、直ちに南遷する」

 慌ただしく大伴王家は額田王を守り日田から九重山系に向かい、別働隊が久留米から有明海に向かった。

 連合船団は大伴王家の移動開始を斥候に確認させ、陽が落ちる前に上陸を始めた。平群隊、坂上隊、檜隈隊、東日流隊、河野隊は唐津湾から上陸。東漢本隊、三郎の出雲隊、身狭隊、川原隊は博多湾から上陸。東漢の太郎の飛鳥隊、三輪隊、葛城隊、和爾隊、太秦隊は遠賀川河口付近から上陸。東漢太子隊、呉原隊、蘇我隊、寒川隊、塩飽隊、直島隊、笠岡隊は豊前の瀬戸内沿岸から上陸し野営の準備に入ると共に、警戒の周辺巡察を開始した。

 翌朝、弾は自ら威力巡察に出た。唐津湾の沿岸は見事な棚田が巡っており、緑のままの稲穂の帯が連なっていた。段丘を上り、草取り中の立派な農民に弾は気さくに声を掛けた。

「精が出ますの、我等は瀬戸内の一番奥の大和から参った秦王国改め俀国の連合船団で我は平群の長を務める、弾と申しまする。この、菜畑の長はどちらに居られますかの」

「わしが菜畑の長じゃ。昨日から、海が賑やかだの」

「これは、失礼をば、いたしました。どの辺りが末盧国ですかな」

「ここから見える範囲がそうじゃ」

「王宮は何処にござるか」

「あれに見える末盧川の上流の久里にござるが、昨日からバタバタしておった故、大方、有明海に落ちたかも知れぬ」

「そうでござったか、我等末盧国に駐留いたす故、菜畑の長殿、宜しゅう頼みまする」

「我等、千五百年前から、この地を耕す苗族の裔じゃ。最初はエビス王家、次がシメオン王家、その次がウガヤ王家と代わりましたがの」

「我の平群も苗族の裔の長が耕してござる。聞けば、遥か南のバンチェンからメコンを下りオケオの港から渡って来たと申しておる」

「わし等も同じじゃ、バンチェンから参ったと言い伝えられておる。大和に入った苗族は我等より五百年ほど遅く渡来したと、運んだフェニキア船から伝えられておる」

「秦王国は大国主様が代々治めてこられたが十四代様に男子が出来なんだで、東漢の広庭様が継がれて当代は二代目の足庭様でござる。協力下され。兵站にも合力下され」

「平群の長殿、我等は今、鉄製品の入手に苦労しておる。国東の重藤の砂鉄がのうなって、東表国のエビス王家の多くは鉄資源を求めて海の向こうの半島に渡り、残った人達も大国様が亡くなられ二代様の東遷の折、付いて行かれたそうじゃ。鉄製品の供給を約束して下されば応じましょう」

「それは、お困りであろう。我等の務めは常に殖産振興が重要でござる。今、砂鉄を産する出雲の部隊も一緒に参って居る。大王様に相談して供給に便宜を図ろう」

「我等の祖先が遥かバンチェンからこの地に渡来したのはフェニキア人が運航するタルシシの採鉱船団が国東半島の重藤に大量の砂鉄層を発見しヒッタイト人がタタラの製鉄基地を築き、エブス人が殷の地に鉄製品の供給を始めたと、フェニキア人が我等の先祖に伝えたからじゃ。鋤や鍬を始めとして鉄資材が無ければ水田稲作農業は出来んでのう」

「日出処の天子」18

 柳井水道の本営に全船団の責任者を招集した足庭は、

「長らくお待たせ申した。偵察部隊が戻り復命を得、筑紫への進発を決断いたしました。筑紫の倭国は今、安羅大伴王家の女王、額田王が率いております。諸般の事情、情報から我らが進攻しても周辺諸国、関係国から援軍が来ることはありません。可及的速やかに全軍で進発いたしますこと、御承引賜りたい」

 平群の弾が、

「待ちかねておったは。否も応も無く承引いたす」

 河勝に代わり新着していた太秦の太子が、

「間に合って良かった、我も承引いたす」

 三輪の太子が、

「やっと、祖先の地が踏めまする。我も承引いたす」

 足庭が承けて、

「御承引ありがとうござる。秋の台風に見舞われる前、稲の刈取りの前、長門の深川湾に待機しております船団に伝令が届き復命を確認出来る七日後に進発いたします」

 河野の長が、

「概ねの、戦略と配置をお示し下され」

 足庭が答えて、

「我等の損害が極力無きよう、大軍団の姿を見せつけて、相手の戦意を失わせ、筑紫の地から逃亡させる戦略を執りまする。玄界灘から響灘の沖にずらっと我らの船団が浮かび、カゴメ紋の幡を掲げます。豊前の瀬戸内側にも船団を浮かべます」

 平群の長の弾が、

「戦わずして勝か、腕が奮えんな」

 足庭が、

「大和の次代を担う若者に多数、参軍していただいております。命は大事にして参りたい。河野の長殿、宗像衆も大国主様の委奴国の民でございますな、至急に連絡を取り、静観するよう伝えて下され」

 河野の長が、

「畏まりました。同族と戦うのは避けとうござる。配慮、痛み入りまする」

 足庭が、

「弾殿、抵抗する者も、掃討戦もありまする。油断せずに参ろう。壱岐、対馬にも使者を送ろう。誰ぞ行ってくれぬか」

 河野の長が、

「我等が参り申そう、お任せあれ。宗像衆に案内させまする」

 足庭が、

「それがよろしかろう、頼みまする。必要であれば、東漢に支援させまする。船団の配置でござるが、玄界灘の西から第一船団の平群隊、東漢の坂上隊、檜隈隊、それに河野隊、三郎の出雲隊、東日流隊。その次に第二船団の東漢の本隊、太郎の飛鳥隊、身狭隊、川原隊、その後に三輪隊、葛城隊、和爾隊、太秦隊が並びます。豊前の瀬戸内側に東漢の太子隊、呉原隊、その後に蘇我隊、寒川隊、塩飽隊、直島隊、笠岡隊が並びまする」

 平群の弾が、

「兵站の段取りは」

 東漢の太子が、

「兵站部隊に三日分の食料を積ませ一日遅れで届けまする」

 足庭が補足して、上陸部隊は掃討と共に食料と水の確保を念頭に進んで下され。弾殿には何時もご苦労を掛けまするが、末盧国の動向が判然と致しませぬ。斥候を出しながら進んで下され。食糧は多めに積んで下され」

 弾が、

「あい分かった」

 足庭が更に、

「三日分で足りぬと判断されれば、追加で補給を考えまする。上陸されましたら極力、田畑を荒らさぬ配慮を願いまする。秋の刈取りは我等も参加して相伴に預かる所存でござる。宜しくお願いします」

「日出処の天子」17

 柳井水道に初夏が訪れ、王宮が完成し、王妃を始めとする後宮の妃嬪、女御が入京した。

「羅尾、ご苦労であった。大嶋瀬戸の手前の麻里布に離宮を建てて下され。風光明媚に女たちが癒されよう」

「畏まりました。飛鳥に戻りましたら、太子様のお子が、お生まれでした」

「そうか、で男の子か」

「男子と伺いました」

「それは目出度い。太子を呼んで来てくれ」

 兵士の訓練から戻った太子は、

「父上、お呼びでしょうか」

「飛鳥で、男の子が産まれたそうじゃ。おめでとう。一度、飛鳥に戻って顔を見てきなさい」

「ありがとうございます」

「こちらに戻ったら、遅くなっているが、お前の立太子の儀式を執り行おう」

 一方、先発し出雲国で哨戒巡察に当たっていた足庭の三男の三郎の元に、思いがけない東日流の荒吐五王国から筑紫奪還に参軍する船団が到着した。直ちに三郎は足庭に使者を出した。使者はサンカ衆の屈強健脚の若者を選んだ。江の川沿いを遡り、三次の集落を抜け、峠道を越え、三篠川を小舟で下り、太田川から瀬戸内に入り、三日で柳井水道の足庭に伝令した。足庭は、

「ご苦労であった。三郎に伝えよ、荒吐五王国に答礼の使者を出し、長門の深川湾に前進し基地を設け、進発の合図を待てと復命下され。しっかり食べて帰られよ」

「畏まりました」

 その後、柳井水道奈良島の王宮には各地の豪族から妃嬪女御にして下されと娘達が次々と送られてきた。詩音が足庭に、

「竜宮城になりましたね。玉手箱は開けないでくださいね」

「白髪の老人になるのかな」

「そうですよ。未だ、筑紫の奪還は終えていませんからね」

「今宵は桃太郎に扮し鬼退治に参ろうか」

「まあ、嬉しい。赤、青、黄色の下着でお待ちしておりますは。お后様の寝所に寄ってからお越しくださいね」 

 柳井水道に夏が訪れ足庭は妃嬪を伴い麻里布の離宮に行幸した。離宮から大嶋瀬戸眺めていた足庭は一艘の早舟が辷るように北上するのを認めた。直ぐに、羅尾を呼び寄せ耳打ちした。

「あれは、紫門殿の船かな」

「皆、左腕に赤い布を巻いております故、間違いなきかと存じます」

「悪いが戻る。あとは頼むぞ」

 急ぎ、奈良島の本営に取って返した足庭は太子を同席させ、紫門を召した。

「紫門殿、ご苦労でござった。筑紫はどうじゃった」

「隠密裏の探索故、時間が殊の外、掛かりました。結論から先に

申し上げます。今が、絶好の侵略時期と判断いたしました」

「そうか、何故」

「話は長くなります。倭国は磐余彦が建国してから北九州と半島南部を治めていましたが、その後、金官加羅王家の倭大王位の独占を嫌った安羅国が新羅と手を結び金官加羅を挟撃し滅ぼしてしまいました。それまで、百済と新羅と金官加羅の三国の勢力均衡が保たれていましたが、金官加羅の滅亡で均衡が崩れ、倭国は半島の権益を失い安羅国の分国も半島から撤退してしまいました。倭国は筑紫一帯を安羅国の勢力だけで維持しており、安羅の大物主王家の額田王という女王が宰領しております。争っても半島からの援軍はなく、百済は新羅と直接向き合っており援軍を出す余裕はございませぬ。日向の安羅本家も南倭の狗奴に明け渡しております。動向が読めないのが肥後の多婆羅国ですが主力は半島に渡っております。大伴王家には残留部隊を糾合する力がないと思います」

「さすれば、大軍で急襲すれば占領できるの」

「さよう判断しております」

「よう判った、ありがとうござる。ゆっくり休んでくだされ」

 紫門が退出し、足庭は太子と二人になった。

「太子、機は熟したの」

「準備は出来ております」

「軍議を招集するぞ、太子」

「畏まりました」

「日出処の天子」16

 平成二十四年三月、上雉大学古代史サークルのメンバーが学年末試験を終え部室に集合していた。西園寺が呟くように、

「来年の四月は大学院に進学できるかな、今の成績じゃ無理かな、休学して留学するかな」

 島津が憂欝そうに、

「俺も今の単位じゃ推薦は無いな、西園寺が留学するなら俺も行くよ」

 美佳が、

「そんな逃避留学は止めなさいよ、前期頑張って単位を修得しなさいよ。私は単位も成績もクリヤーしているは」

 香苗も、

「私もクリヤーしているわよ」

 西園寺が羨ましそうに、

「院に上がってから留学すればいいか、それなら今、誘われている三笠宮ソシアルダンスクラブにも行けるな、島津も美佳も香苗も行ってみないか」

 美佳が、

「上雉はフラメンコだけど、何時か海外へ出るかも知れないから必要かもね」

 島津は、

「俺、一応、外交官志望なんだ」

 香苗は、

「ダンスシューズ持っているわよ」

 西園寺が、

「それじゃ、決まりだ。それと、島の庄の石舞台古墳、巷間では蘇我馬子の墓って言われてるけど、東漢の初代王の陵墓で決まりだね。偽史シンジケート集団を内包するシメオン族のボスになった不比等が編纂した日本書紀は九割方フィクションで物語だからね。蘇我三代の話も半島史の焼き直しなんだ。大和の話じゃない」

 島津が、

「白村江の戦いに勝利した新羅占領政権が不比等に委ねた日本書紀の基本コンセプトは、樹立した奈良朝廷は大昔から大和にあった。それに、反する、ガド族の東鯷国、シメオン族の秦王国、北九州に存在した神武と卑弥呼の伊都国と邪馬壱国、宇佐八幡を都とした千年王朝の東表国の歴史を抹消することなんだよ」

 美佳が、

「そうよ、奈良政権樹立以前の歴史は全て創作しなければならなくて、新羅史や百済史を下敷きにして手っ取り早くストーリーを編んだのよ」

 香苗が、

「だから、入鹿殺しと新羅の毗曇の乱は瓜二つなの、蹴鞠の出会いから、皇子が忠臣の娘を娶り、入鹿=毗曇が女帝を脅かすと、皇子と忠臣である中大兄皇子と中臣鎌足=金春秋と金庾信は入鹿=毗曇を誅殺し、中大兄皇子=金春秋は自ら即位せず女帝の斉明=真徳を擁立したのよ。全く同じなのよ」

 西園寺が受けて、

「馬子、蝦夷、入鹿の三代は大和に存在しない訳だから、石舞台古墳は馬子の墓ではない。それと三輪山の西に茅原狐塚古墳が近頃注目を集めていて、玄室に棺が三つ並んでいたそうなんだ。築造年代も六世紀末から七世紀初頭だって。秦王国十四代様の御陵ではと思うんだ。石舞台古墳と同じように封土はないそうなんだ。奈良朝廷を樹立した人達が意図的に破壊したのかな」

 島津が、

「それじゃ、来週皆で見に行こうぜ」

 美佳が、

「それと、十四代様が東漢に薦め広庭が始めたヘレニズムの勉強会は後に紀貫之と言う天才文人を生んでいるのよ」

 香苗が、

「そうよ、ギリシャ神話に精通していた貫之は蟻通神社の前を乗馬姿で通ると馬が倒れ『かきくもり あやめもしらぬ おおぞらに ありとほし をばおもうべしやは』と和歌を献じたら馬の病気が治ったと書いているんです。ギリシャ神話に登場する蟻通しの神ダイタロスを下敷きに書いたのよ」

 美佳が、

「そうそう、それを読んで感嘆した清少納言が『蟻通しの明神、貫之が馬のわずらいけるに、この明神のやませ給うとて、歌よみて奉りけるに、やめ給ひけん、いとおかし』と書いているのよ」

 西園寺が、

「平安期の知識人はギリシャ神話を知っていたんだね」

 美佳が、

「貫之の凄さは現在の国歌の元歌を古今和歌集に詠み人知らずにして掲載したことね『我が君は、千代に八千代に、さざれ石のいわおとなりて、苔のむすまで』これは猿田彦二世の歌と承知した上で天皇家に配慮して詠み人知らずに区分けしたのよ。明治維新の後、薩長連合政府の大山巌が取り上げて今に至るのよ」

「日出処の天子」15

 その頃、牛窓を出た第二船団は直島、塩飽、笠岡などの多数の島々を巡り水軍への参加を募った。塩飽の島々では小競り合いがあったものの圧倒的な軍団を背景に制圧し参加隻数を増やした。

 船泊は宇野、児島、尾道と重ね、因島、大三島、伯方島などの島々で引き続き水軍への参加を募り竹島で船泊した。

 第一船団は新居庄から越智一族の根拠地今治に入り歓迎を受け、弾は直ちに早舟を出し、第二船団の礼尾に連絡を取った。折よく竹原に入っていた礼尾は次の船泊呉湊での終結を指示した。

 呉湊で邂逅した両船団は併せて千艘を越える大陣容となった。

「弾殿、ご苦労様でした」

「いやー、河野衆と漕ぎ比べをいたしましての、心底疲れもうした。河野の船は早いの早いの」

「河野衆には、いずれ水軍を担って戴こう」

「それは良い」

 呉湊で軍議を開いた礼尾は、

「第一目標である周防の柳井水道が望めるところまで参れました。御参軍の皆様のご尽力の賜です。御礼申し上げる。柳井水道は二代様が東遷の折、最初に分国を建てられ、宇佐八幡を奉じてこられた東表国の方々は最初に八幡を建てられ、相協力して周防国を建てた所縁の地でござる。猿田彦の一族にとっても東遷の折、最初に日代宮を始め数々の社殿を建てられた所縁の地でござる。皆、故なき争いは慎みて参ろう。直ぐに物見の船団を出し、安全が確保され次第、順次出立の運びにいたしまする」

 周防国に残留していたシメオン族、ガド族、ゼルブン族、シュメール人達は皆、歓喜を以って迎えたと物見の軍団からの復命が届き、礼尾は全軍団に進発を命じた。

 周防の半島部と屋代島の間にある大畠の瀬戸を通り、半島部と大嶋が作り出す柳井水道一帯を連合船団の船が埋め尽くした。礼尾は直ちに奈良島に上陸し本営を定め軍議を招集した。

「参軍を頂いた全船団の皆様に感謝を申し上げる。突然ではありますが、秦王国は本日を以って、大和の飛鳥から、此処、柳井水道の奈良島に遷都することを宣します。国号を秦王国から俀国と改め、元号を吉貴と改元いたします。我は足庭と改名し天子を号しまする。筑紫奪還には、この瀬戸内航路の要衝であります柳井水道を継続的に前線基地にすることが必須の事柄です。ご理解を賜りたい。筑紫の状況については極秘裏に偵察部隊を送っております。復命があり次第、進発の判断をいたします。それまでの間、陣割地にて暫し休息下され」

 太秦の河勝が、

「後宮はどうされる」

「我は直ちに王宮の建設を開始いたしまする」

 河勝が続けて、

「我は此処まで良く参れたと思うが、これからは太子と交代しても良いかの」

「結構です。太子を呼び寄せられた上で、どうぞ御帰還くだされ」

 弾が、

「我も長の館を建設してもよいかの」

「他のご参軍の皆様も館建設を望まれるのであればお造り下され。妻子を呼び寄せられるのも夫々の判断で進めて下され」

 軍議を終えた足庭は詩音の長男の羅尾を呼び、

「羅尾、柳井水道では食料は賄い切れぬ、備前、播磨、摂津、大和から運ばねばならぬ、航路の確保と運搬に塩飽衆たちを加え兵站部隊を拡充してくれ」

「畏まりました」

「それと、大和に戻り、詩音に後宮の柳井水道への遷移を伝えてくれ」

「分かりました。王妃様には」

「手紙を書く故、届けて下され。もう一つ、大二郎叔父の長男の太郎殿に護衛を兼ねて一緒に周防に入って参軍されたしと言って貰おうかの」

「日出処の天子」14

 大和飛鳥に菜の花が咲き、瀬戸内を吹く北西の風が弱まる季節を迎え、礼尾は西征を開始した。難波津に集結した大船団は八百艘を越えていた。

 最初の軍議を開いた礼尾は、

「茅渟の海から淡路の北の明石海峡を通り瀬戸内に入り、船団を二手に分けまする。第一船団は東漢の坂上、檜隈、身狭、川原、呉原の五隊と平群の隊が四国の讃岐伊予の沿岸を物見掃討しながら進み、平群の長の弾殿に指揮をお願いしまする。第二船団は三輪、葛城、和爾、蘇我、太秦の五隊と東漢の本隊が山陽道沿岸を物見掃討しながら進み、指揮は我が執ります。副官は東漢の太子が努めまする。各隊は連絡を密に取りながら進んでくだされ」

 太秦の河勝が、

「兵站の段取りをお知らせ願いたい」

 礼尾は太子に発言を促した。

「食料調達のために先発隊を出し、山陽道沿岸は船泊りを予定しまする、湊と津には食料と水を準備させております。但し、四国の讃岐伊予の沿岸は手配をしておりません。讃岐の猿田彦一族伊予の越智氏には連絡をしております故、その対応に依っては山陽沿岸にお戻り頂く判断も必要と考えまする。小豆島に向かう前は少し多めに食料をお積み下され」

 平群の弾が、

「分かり申した。硬軟両睨みで対処いたしまする」

  難波津を船出した船団は途中、文身国などを表敬訪問し、兵站合力の謝意と改めて筑紫奪還への協力を依頼しながら、兵庫、明石高砂、赤穂、牛窓と船泊し、翌朝、第一船団は小豆島の西側を回り讃岐を目指し、小豆島の土庄の入り江の奥が見え、屋島がはっきりと見えた時、女木島との間に一団の船影が浮かんだ、弾は水夫頭に、

「カゴメ紋の幡を揚げよ」

 と命じた。船団が近付くと、相手船団にもカゴメ紋の幡が掲げられていた。弾は接近命じ、

「我らは秦王国の合同船団でござる。我は第一船団の指揮を執りまする、平群の長の弾でござる。これから、周防の柳井水道に集結いたしまする」

 相手船団から、

「我は猿田彦様の末裔で讃岐の寒川の長を務めております。我等、周防の日代宮に参りとうござる。是非、船団にお加え下され」

「承知した。一緒に参ろう。大王には早舟で知らせまする。寒川の長殿、お願いがござる。讃岐と伊予には兵站部隊を送らずに参った。そちらで兵站の合力をしてくださらんか」

「承知つかまつった。讃岐は直ぐに掛かりまする。今日は高松に船泊下され。されど、伊予は我らの力が及びませぬ」

「そうでござった、伊予の越智氏には東漢から知らせを出しておるが、明日早舟を出して見ましょう」

 弾の第一船団は高松、坂出、多度津と船泊りし、粟島と詫間岬の間を抜け三崎の鼻を回り込み燧灘に入ると数艘の船が見えた。弾は再び水夫頭にカゴメ紋の幡を掲げさせた。

 一艘は弾の出した早舟、残りの二艘は剣と盾を描いたシメオンの幡とカゴメ紋の幡を掲げた越智一族の迎え船であった。弾は声を張り上げ、

「我等は秦王国の連合船団でござる。我は第一船団の指揮を執ります、平群の長の弾でござる」

「お迎えに参りました。我は大国様の委奴国の民で海人族の裔、伊予の越智一族の河野郷の長でござる。筑紫奪還は我等にも悲願、是非にも加わりとうござる」

「大王様に早舟を出し、早速に知らせましょう」

「忝い、今日は遠く南に見えまする新居庄の津に走って下され。弾殿、我等と漕ぎ比べをなさらんか」

「お誘いとあれば、お請けいたす」