「ウガヤフキアエズ」2

 前八百五十六年、アッシリア王シャルマネサルはウラルトゥに侵攻し初代王アマテルを追放します。

 前八百四十九年、ウラルトゥの二代王シャルドウリシュ一世は国力を回復しヴァン湖畔の岩上に築城して、トプラク・カーレ碑文を作ります。日本史ではオシホミミと記しています。

 前八百三十三年、アッシリア王シャルマネサルが将軍ダイアンアッシュールにウラルトゥを伐たせるも失敗します。

 前八百十七年、ウラルトゥ三代王イシュプイニッシュが即位します。日本史ではニニギノ命と記しています。

 前八百十~七百八十一年、ウラルトゥ四代で英王と言われたメヌアッシュは南方を攻略しトプラグ・カーレに運河を作ります。日本史ではホホデミノ命と記しています。

 前八百十~七百八十三年、アッシリアにアダドニラリー三世が在位し、二回に亘りウラルトゥを伐ち、ヴァン地方を確保し、さらにエラム人を率いてバクトリアを伐ちます。

 前七百八十一~七百七十六年、アッシリア王シャルマネサル四世が在位します。この時、ウラルトゥ王アルギシュテッシュ一世はアラクセス川の平野に攻め入り、西はハッティからマラティアまで、東はペルシアシュを伐ち、その末年にはシリアを親政します。アッシリアは将軍シャマシュイルにウラルトゥを伐たせますが失敗します。アッシリア王シャルマネサル四世は戦死します。

「宮下文書」はウラルトゥ王アルギシュテッシュ一世をウガヤ初代王とし、この時代をウガヤ初代王の征戦と記しています。

 前七百五十四~七百四十五年、アッシリア王アッシュールニラーリ五世在位します。「宮下文書」はウガヤ二代王シャルトウリシュ二世は王兄が水難で死んだため、代って即位したとあります。ウラルトゥ側が戦いに敗れたことを示しています。

 前七百四十四~七百二十七年、ウガヤ二代王シャルトウリシュ二世はメディア人の地パルスアッシュを併せ、北シリアに侵入し「シュラウシュ(シリア)の王」と称します。

 アッシリアはシリアのアルパドを攻撃し、北上してクンムク国の戦いでウガヤ軍を破ります。

 前七百四十一年、アッシリアは三年の包囲戦ののちアルパトを落とします。

 前七百四十年、アッシリアはクンムク、クエ、カルケミシュ、ダマスコスおよびテュロス王の朝貢を受けます。ウラルトゥはシリアを失います。

「ウガヤフキアエズ」

日本書紀巻第三、神武天皇の記述に神日本磐余(かむやまといわれひこ)天皇の諱(実名)は彦火火出見(ひこほほでみ)といい、鸕鷀草葺不合(ウガヤフキアエズ)尊の第四子である。とありますが「神皇紀」「上記」「竹内文書」「九鬼神伝全書」では「ウガヤフキアエズ」は個人名ではなく王朝名になっています。

「神皇紀」では五十一代、「上記」「竹内文書」では七十三代とあります。これは、白村江の戦いに勝利した唐・新羅連合が北九州に進駐した後、新羅が大和に単独政権の樹立に成功し奈良朝廷を立ち上げ、唐に国家設立趣意書として日本書紀の提出に当たり漢・唐の歴史より古くならないよう、北九州先着エビス王家の東表国を消し去り、その建国時期に合わせるためウガヤフキアエズ王朝を一代にし個人名としました。以下、ウガヤ王朝と記述します。

 ウガヤ王朝の始まりは前九世紀頃、ウラルトゥ王国がコーカサス、アルメニア、トルコのヴァン湖周辺を支配し隣国アッシリアと対抗したのが揺籃期です。前六百九年アッシリアが滅亡したあとも生き残って、前七世紀の初め頃キンメリと同盟します。

 ウラルトゥ王国はメソポタミアで前十九世紀頃、バビロン第一王朝が始まり、前十一世紀頃イシン王国の末期にニギハヤヒ王朝の礎となる海の王国のマカンがフェニキア人とヒッタイト人の混血したアラム人のウラルトゥがアッシリアと戦い、初め勝利するもアッシリア王シャルマネサル二世の攻撃でイシン王国が滅びニギハヤヒ族は海に浮かび、ウラルトゥは北方のトルコのヴァン湖周辺に退きました。

 ウラルトゥ王朝の初代王はアマテルという男王です(前八百八十年頃)。日本書紀はこれを神話時代の天照大神という女神に換えています。

  「壱与」

  『契丹北倭記』の宗女壱与

 『洲鮮記』(フェニキア系諸国の新史)に曰く、

「乃ちここに辰の墟を訪う、娜たるかの逸豫台米、民率とともに未合(みまな)と為る。空山に鵑叫んで、風江星令たり。駕してここにその東藩をみるに、封焉(おおい)なる彼の丘。知らず、これ誰なるお。行(みち)に弔人なく、秦城寂として存す。ああ秦迂氏の殷。今将にいづくにあらんとするや。茫々たる萬古詞諓の感、またそぞろに真人の興るをまつのみ」。

 訳すと、以下のようになります。

「すなわち、辰国の遺跡を訪ねてこの故地に来た。風にも折れるかのような宗女壱与は、人民と共に王城任那を建てた。人なき山に鵑が叫び、風は入江をよぎって星は冷たい。駕してここにかっての東大国(任那の東潘である辰韓の地を訪れて)観るに、彼方の大丘にはいま何人があるのか。秦城のあとは黙して語らず、道には往古を偲ぶ弔人もいない。ああ辰迂殷の後継者たる辰王国はあとかたもなく、往時は茫々として歳月は去り、またそぞろに興国の真人を待つばかりである」。

『倭人興亡史』には「宗女イヨが辰国の故地を訪れた」とあります。綏靖妃イヨのことです、綏靖の子・安寧とともに南朝鮮に移動して、狗奴国の孝霊水軍と戦ったことになります。すなわち、このとき壱与は王族たちを率いて、倭人諸国の祭祀センター=任那(対馬・厳原)に移っていたのです。

 公孫氏(大物主王家)の宗女壱与は卑弥呼が亡くなり邪馬壱国女王となり、ウガヤ王家神武の次男綏靖に嫁ぎ安寧を生み任那(対馬)で倭大王に就位します。ウガヤ王朝(天皇家系)にフェニキア系の公孫氏のピースが嵌め込まれます。

「卑弥呼・邪馬壱国」3

 二二〇年、中国では曹操の死によって、曹丕が皇帝となり魏朝が建てられ、後漢の滅亡によって「三国時代」が始まります。

 二二一年、遼東に残留した公孫氏では公孫康の弟・恭(建御名方命)が即位します。二二八年、公孫恭が死亡し、燕王として康の子・淵が即位します。

 二三四年、神倭イワレヒコ・伊都国王=神武天皇が崩御します(享年六十六歳)。神武の死後、一大卒の地位をめぐって、再び「倭の大乱」が起こりますが、伊都国(筑紫)、多婆羅国(肥後)、安羅国(薩摩・日向)及び東表国(宇佐)の諸王が図って倭人連合の「邪馬壱国」を建国し、神武王妃の卑弥呼(公孫度の宗女)を女王に推戴します。そこで、卑弥呼(この時四十六歳)は神武と先妻アヒラツ姫(実は卑弥呼の妹)との間の王子・タギシミミ(季父)を伯済国から呼び寄せて夫婿とし、都を安羅国の首都・西都原に定め君臨します。

 二三八年、魏の司馬懿仲達が公孫淵を殺し、燕国を滅ぼします。二三九年、故地、故国を滅ぼされた卑弥呼は魏に朝貢します。魏は卑弥呼を「親魏倭王」とします。二四三年、卑弥呼は再び魏に朝貢し「邪馬壱国・倭国大王」の地位を公認させます。

「魏志」倭人伝は「女王の名は卑弥呼といい、鬼道に仕え、よく人心を惑わしている」と記します。当時の東アジアの国々では卑弥呼は最も優れた鬼道のシャーマンとして尊敬されていました。

 二四七年、卑弥呼は神武の博多侵攻の折り、委奴国王・大国主命を支援した沖縄の狗奴国王・長髄彦との戦いを始めます。二四八年、狗奴国王との戦いの中に崩御します(享年六十一歳)。直ちに、公孫氏の宗女・壱与(当年十三歳)が即位します。

 卑弥呼の陵墓は大きな冢(円墳)です。イカッサル族の手によって西都原古墳群に建てられ、男佐穂塚古墳として現存しています。この古墳の円墳部分は直径百二十八メートル、高さ十八メートルの四段式円墳でしたが、明治時代に偽史シンジケートにより二十四メートルのクビレ部分と六十七メートルの変な尻尾を付けられ変形の前方後円墳に改竄されます。

「卑弥呼・邪馬壱国」2

 一八九年、東扶余王の罽須(後の神武)は遼東から朝鮮半島に進出し始めた公孫氏と戦い勝利を得ます。負けた公孫度(大物主命)は卑弥呼の妹、アヒラツ姫を罽須に嫁がせ、息子の公孫康(事代主命)には罽須の妹、武熾姫を娶らせ、クロス対婚関係を作り同盟を結びます。後にアヒラツ姫が亡くなり、姉の卑弥呼が神武の後妻に入り、同盟を強化します。

 二〇四年、燕王・公孫度が崩御し長男・公孫康が燕王に即位します。二〇五年、公孫康は楽浪郡南部を分割し帯方郡を設けます。

 二一〇年、高句麗・発岐王は内紛もあり五瀬命と名乗り、東扶余のウガヤ王・罽須(磐余彦命・神武)と共に北倭を率い南下を開始し九州博多に上陸し橋頭堡を築きます。この時、罽須と同盟していた公孫康(事代主命)は九州に渡来し日向・西都原に投馬国を建てます。

 同年、磐余彦神武は博多の橋頭堡から、公孫康は南方の有明海から上陸し、大国主命の委奴国(博多及び吉野ヶ里)を挟撃します。委奴国の人々は数年間勇敢に戦いますが、先頭に立って戦っていた大国主命(シメオン族々長)が遠矢に当たり戦死し急速に戦意を喪失します。

 二一三年、大国主命の委奴国は滅亡します。イワレヒコ神武と公孫康は南下して多婆羅国(熊本)へ攻め込みますが、五瀬命が戦死し熊本付近で敗北するものの、東表国・エビス王の仲介により和睦します。

 多婆羅国王のニギハヤヒの尊はイワレヒコ神武に「十種神宝」を奉呈し北扶余以来の王権を禅譲します。以後、「三種神器」による天皇譲位の儀式となります。

 二一四年、イワレヒコ神武は博多の橋頭堡に戻り旧伊勢国(猿田彦)の領土に伊都国を建国し王宮を須玖岡本に開き一大基地を建設しました。伊都国王の神武は一族を二分し王子達に東扶余と帯方郡伯済国及び伊都国の支配権を夫々委任し、自らは一大卒に就任し各地を監察して回ります。神武夫人の卑弥呼は委奴国の旧都・比恵の王宮に居住し、安羅国王であった弟の事代主命が亡くなった後は世襲地となった、安羅国を直接支配しその首都西都原を行き来します。

「卑弥呼・邪馬壱国」

 紀元前十二世紀アラビア半島イエメン(シバ国)に生まれたビルギース王女は三人の兄と父王の死後、シバの女王になり通商を盛んに行い紅海に君臨します。シバ王国は現代の紅海両岸にあるイエメンとソマリアを支配していました。

 イスラエルのソロモン王は父ダビテ王とヒッタイトの女の間に生まれます。航海術に長けたフェニキアのヒムラ国王と通商条約を結び、共同で商船団を建造し地中海中心に交易を広げます。

 ソロモン王とビルギース女王は互いの能力と権益を更に高めるため政略結婚し、王子メネリケを授かります。二人はタルシシ貿易を共同で行います。ソロモンのタルシシ船は紅海を自由に通り抜け紅海からアラビア海、インド洋に抜けるルートを他国の領土を通らずに確保しました。ソロモンによってタルシシ貿易と製鉄が結びつき、世界の富を独占する体制が整いました。

 後に、メネリケ王子が国際貿易船であるタルシシ船の経営者につきます。また、エチオピアの始祖王に就いたとも言われています。タルシシ船交易の責任者に就いたメネリケは父母の生業を引き継ぎヒッタイトの製鉄技術者やエブス商人をインド大陸やマレー半島に派遣しガンジス中流にアンガ国を建て、メコン上流のバンチェンに入植し各地に製鉄所を造り、鉄製品を黄金、象牙、香料などと交換しました。

 タルシシ船はフェニキア人が運行していました。フェニキア船の人々はマレー半島でヤーヴァ・ド・ヴィーバ国を建てた後、ボルネオに耶馬提国を作り、黄河々口に上陸し、遼東に移り公孫氏の大物主王家となります。

 公孫度は百八十九年、後漢より遼東太守に任命されるも、そのまま後漢から自立。二百四年、公孫度の嫡子の公孫康が楽浪郡の屯有県以南に帯方郡を建てます。

 公孫度・大物主命は卑弥呼の父親。公孫康・事代主命は卑弥呼の弟です。

 「ニギハヤヒ」6

 二~三世紀の極東は秦の始皇帝の盛衰と漢の勃興、高句麗の隆盛から倭人諸国の南下、南征が続き倭の大乱の様相見せます。

 AD百六十五年、東表国エビス王の海部知男尊が高句麗を攻め次大王を殺した。そのため高句麗王には新大王・伯固が即位し膨張政策を強めます。

 AD百九十七年、東扶余王の罽須(後の神武)は遼東の公孫康を破るも、その後、和睦し罽須は公孫度(大物主尊)の次女アラツヒメを娶り、公孫康は罽須の妹武熾姫を娶り義兄弟になり、南征の途に就きます。

 AD二百四年、北扶余後期王朝のニギハヤヒ尊がマラ族とモン族と白丁隼人等を率いてアマツマラが船長の天の鳥船に乗り、みたび大船団を組んで清津港を出発し遙々渡海しバカン(熊本港)に入り陜夫が建てた多婆羅国に参入します。

 AD二百十年、高句麗の発岐王は立志して五瀬尊を名乗りウガヤ王罽須と共に「北倭」を率い南下を始め、九州博多に橋頭堡を築きます。この時、罽須と同盟していた公孫康(事代主命)もチャム人を率い九州に渡来し日向西都原に投馬国を建国します。

 罽須は博多の橋頭堡から、公孫康は南方の有明海から上陸し、相呼応して吉野ヶ里委奴国の大国主命を挟撃し、AD二百十三年に大国主命を戦死させ委奴国を滅ぼします。罽須と公孫康は連合してさらに南下し、ニギハヤヒの多婆羅国を攻め敗北するも、東表国エビス王の仲裁で和睦します。

 ニギハヤヒ命は「十種神宝」を奉呈し、余(アグリ)姓を譲渡します。「十種神宝」の奉呈は王権の禅譲を意味し、以後「三種神器」による天皇譲位の儀式に繋がります。

 「ニギハヤヒ」5

 河南省南陽に製鉄基地を作っていた宛の除のニギハヤヒ一族は秦の始皇帝に圧迫を受け天の鳥船に乗りアマツマラを船長に船団を組み遼河の流域に移動し徐珂殷を建国しアグリナロシが即位します。      その後、前二百九年に秦が滅亡した後、勃興した漢が燕人の衛満を使い秦の王族を楽浪郡堤奚に収容していた箕子朝鮮(カルディアがイシンの王族を中国に亡命させて建てた国)を滅ぼしたので、アグリナロシは箕子朝鮮のために漢に掛け合い、漢は郡を置かないと約束し、王印を与えて誓いましたが、漢は直ぐに楽浪と玄莵の二群を置いたので、アグリナロシは怒りで憤死します。その間、箕子朝鮮の上将卓が馬韓の地に辰王国を建てます。

 ナロシの子のアグリイサシは遼東を襲い群守の彭吾賈を斬り殺し、国を率いて扶余に入り合体します。強大になった北扶余ではありますが、両雄並び立たずウガヤ王朝は東扶余に移動します。残ったニギハヤヒ王朝のアグリイサシは北扶余後期王朝の東明王として即位します。

 しかしながら、扶余から分かれた高句麗が強大になり周辺国に圧力を加える様になり、後期王朝から陜父がスピンアウトし九州熊本に多婆羅国を建てます。

 「ニギハヤヒ」4

 前千年以降、海の国ディルムンのカルディア人はヒッタイトの製鉄部族を吸収し、アラビア海のヤードゥ族を従えてプール国となりアラビア海の海人マラ(メルッハ)族のアマツマラを船長に船団を組み天の鳥船に乗りインドに入りガンジス流域のマガタ、コーサラ両国でシャキィ族になりインド最大の製鉄基地を作ります。

 金属農機を入手出来るようになった農耕民たちは土の堅かったガンジスの北岸のヒマラヤ山麓南部を開拓します。それに伴い国家が群雄割拠しクシャトリアの武士階層が生まれます。そしてシャキィ族の中からコーサラ国でシャカ族が派生し仏教の祖シャカを生みます。

 ニギハヤヒのシャキィ族達はシュメール文化と先進の農業技術を教えたアーリアンに押し出される様に、再びアマツマラを船長に天の鳥船に乗ってガンジスを下り、マレー半島のクラ地峡を越えメナム河流域に入りモン族を従え、前七世紀頃ベトナムで文郎国を譲られます。モン族(モンクメール)は後の物部氏などになります。

 シャキィ族、シャカ(釈迦)族、シャカイ(徐珂殷)は皆同族を示す語呂です。また、シャキィ族、ナガ族などは共にメソポタミアからインド、東南アジア、極東に移動しています。

 因幡の白ウサギ神話のワニ騙しの話はジャワの伝説、ネズミジカが洪水で水嵩の増した川を渡るときワニを呼んで背中を踏んで対岸に渡る話と同じです。これも、中東からインド、東南アジアから日本に移動した人々が運んだ寓話です。

 「ニギハヤヒ」3

 宛の除の一族は、かってディルムンを本拠としたシュメール人とカルディア人の子孫で、のちにソロモンのタルシシ船に参加したヒッタイトの製鉄カーストを吸収し、アラビア海のヤードゥ族をも従えてプール国をたて、ガンジス河口のコーサラ、マガタ両国のシャキィ族となってマレー半島のクラ地峡を越え、モン族の地を支配し、ベトナムに文郎国をたて、河南省の宛に製鉄コロニーを作りました。

 前二千年頃から前一千年にかけて、メソポタミアのバビロンの地をイシンという国家が支配をしていました。イシンが滅亡ののちにカルディア人は海の国王朝を建てます。ディルムンの本拠地はバビロン南方のバハレーン島です。ヒッタイトが滅びアッシリが勃興します。海の国のカルディア人はヴァン湖の周辺に建国されたウラルトゥ王国と協力しアッシリアに対抗します。これがニギハヤヒ王朝と後のウガヤ王朝の最初の出会いです。初めはアッシリアに勝利していましたが、段々に劣勢となり、ウラルトゥ王朝はウガヤ王朝に変身し陸のシルクロードを東遷します。海の国のカルディア人はヒッタイトの製鉄カーストを吸収し、アラビア海のヤードゥ族を従えてプール国となり海のシルクロードを東遷します。