「卑弥呼・邪馬壱国」

 紀元前十二世紀アラビア半島イエメン(シバ国)に生まれたビルギース王女は三人の兄と父王の死後、シバの女王になり通商を盛んに行い紅海に君臨します。シバ王国は現代の紅海両岸にあるイエメンとソマリアを支配していました。

 イスラエルのソロモン王は父ダビテ王とヒッタイトの女の間に生まれます。航海術に長けたフェニキアのヒムラ国王と通商条約を結び、共同で商船団を建造し地中海中心に交易を広げます。

 ソロモン王とビルギース女王は互いの能力と権益を更に高めるため政略結婚し、王子メネリケを授かります。二人はタルシシ貿易を共同で行います。ソロモンのタルシシ船は紅海を自由に通り抜け紅海からアラビア海、インド洋に抜けるルートを他国の領土を通らずに確保しました。ソロモンによってタルシシ貿易と製鉄が結びつき、世界の富を独占する体制が整いました。

 後に、メネリケ王子が国際貿易船であるタルシシ船の経営者につきます。また、エチオピアの始祖王に就いたとも言われています。タルシシ船交易の責任者に就いたメネリケは父母の生業を引き継ぎヒッタイトの製鉄技術者やエブス商人をインド大陸やマレー半島に派遣しガンジス中流にアンガ国を建て、メコン上流のバンチェンに入植し各地に製鉄所を造り、鉄製品を黄金、象牙、香料などと交換しました。

 タルシシ船はフェニキア人が運行していました。フェニキア船の人々はマレー半島でヤーヴァ・ド・ヴィーバ国を建てた後、ボルネオに耶馬提国を作り、黄河々口に上陸し、遼東に移り公孫氏の大物主王家となります。

 公孫度は百八十九年、後漢より遼東太守に任命されるも、そのまま後漢から自立。二百四年、公孫度の嫡子の公孫康が楽浪郡の屯有県以南に帯方郡を建てます。

 公孫度・大物主命は卑弥呼の父親。公孫康・事代主命は卑弥呼の弟です。

 「ニギハヤヒ」6

 二~三世紀の極東は秦の始皇帝の盛衰と漢の勃興、高句麗の隆盛から倭人諸国の南下、南征が続き倭の大乱の様相見せます。

 AD百六十五年、東表国エビス王の海部知男尊が高句麗を攻め次大王を殺した。そのため高句麗王には新大王・伯固が即位し膨張政策を強めます。

 AD百九十七年、東扶余王の罽須(後の神武)は遼東の公孫康を破るも、その後、和睦し罽須は公孫度(大物主尊)の次女アラツヒメを娶り、公孫康は罽須の妹武熾姫を娶り義兄弟になり、南征の途に就きます。

 AD二百四年、北扶余後期王朝のニギハヤヒ尊がマラ族とモン族と白丁隼人等を率いてアマツマラが船長の天の鳥船に乗り、みたび大船団を組んで清津港を出発し遙々渡海しバカン(熊本港)に入り陜夫が建てた多婆羅国に参入します。

 AD二百十年、高句麗の発岐王は立志して五瀬尊を名乗りウガヤ王罽須と共に「北倭」を率い南下を始め、九州博多に橋頭堡を築きます。この時、罽須と同盟していた公孫康(事代主命)もチャム人を率い九州に渡来し日向西都原に投馬国を建国します。

 罽須は博多の橋頭堡から、公孫康は南方の有明海から上陸し、相呼応して吉野ヶ里委奴国の大国主命を挟撃し、AD二百十三年に大国主命を戦死させ委奴国を滅ぼします。罽須と公孫康は連合してさらに南下し、ニギハヤヒの多婆羅国を攻め敗北するも、東表国エビス王の仲裁で和睦します。

 ニギハヤヒ命は「十種神宝」を奉呈し、余(アグリ)姓を譲渡します。「十種神宝」の奉呈は王権の禅譲を意味し、以後「三種神器」による天皇譲位の儀式に繋がります。

 「ニギハヤヒ」5

 河南省南陽に製鉄基地を作っていた宛の除のニギハヤヒ一族は秦の始皇帝に圧迫を受け天の鳥船に乗りアマツマラを船長に船団を組み遼河の流域に移動し徐珂殷を建国しアグリナロシが即位します。      その後、前二百九年に秦が滅亡した後、勃興した漢が燕人の衛満を使い秦の王族を楽浪郡堤奚に収容していた箕子朝鮮(カルディアがイシンの王族を中国に亡命させて建てた国)を滅ぼしたので、アグリナロシは箕子朝鮮のために漢に掛け合い、漢は郡を置かないと約束し、王印を与えて誓いましたが、漢は直ぐに楽浪と玄莵の二群を置いたので、アグリナロシは怒りで憤死します。その間、箕子朝鮮の上将卓が馬韓の地に辰王国を建てます。

 ナロシの子のアグリイサシは遼東を襲い群守の彭吾賈を斬り殺し、国を率いて扶余に入り合体します。強大になった北扶余ではありますが、両雄並び立たずウガヤ王朝は東扶余に移動します。残ったニギハヤヒ王朝のアグリイサシは北扶余後期王朝の東明王として即位します。

 しかしながら、扶余から分かれた高句麗が強大になり周辺国に圧力を加える様になり、後期王朝から陜父がスピンアウトし九州熊本に多婆羅国を建てます。

 「ニギハヤヒ」4

 前千年以降、海の国ディルムンのカルディア人はヒッタイトの製鉄部族を吸収し、アラビア海のヤードゥ族を従えてプール国となりアラビア海の海人マラ(メルッハ)族のアマツマラを船長に船団を組み天の鳥船に乗りインドに入りガンジス流域のマガタ、コーサラ両国でシャキィ族になりインド最大の製鉄基地を作ります。

 金属農機を入手出来るようになった農耕民たちは土の堅かったガンジスの北岸のヒマラヤ山麓南部を開拓します。それに伴い国家が群雄割拠しクシャトリアの武士階層が生まれます。そしてシャキィ族の中からコーサラ国でシャカ族が派生し仏教の祖シャカを生みます。

 ニギハヤヒのシャキィ族達はシュメール文化と先進の農業技術を教えたアーリアンに押し出される様に、再びアマツマラを船長に天の鳥船に乗ってガンジスを下り、マレー半島のクラ地峡を越えメナム河流域に入りモン族を従え、前七世紀頃ベトナムで文郎国を譲られます。モン族(モンクメール)は後の物部氏などになります。

 シャキィ族、シャカ(釈迦)族、シャカイ(徐珂殷)は皆同族を示す語呂です。また、シャキィ族、ナガ族などは共にメソポタミアからインド、東南アジア、極東に移動しています。

 因幡の白ウサギ神話のワニ騙しの話はジャワの伝説、ネズミジカが洪水で水嵩の増した川を渡るときワニを呼んで背中を踏んで対岸に渡る話と同じです。これも、中東からインド、東南アジアから日本に移動した人々が運んだ寓話です。

 「ニギハヤヒ」3

 宛の除の一族は、かってディルムンを本拠としたシュメール人とカルディア人の子孫で、のちにソロモンのタルシシ船に参加したヒッタイトの製鉄カーストを吸収し、アラビア海のヤードゥ族をも従えてプール国をたて、ガンジス河口のコーサラ、マガタ両国のシャキィ族となってマレー半島のクラ地峡を越え、モン族の地を支配し、ベトナムに文郎国をたて、河南省の宛に製鉄コロニーを作りました。

 前二千年頃から前一千年にかけて、メソポタミアのバビロンの地をイシンという国家が支配をしていました。イシンが滅亡ののちにカルディア人は海の国王朝を建てます。ディルムンの本拠地はバビロン南方のバハレーン島です。ヒッタイトが滅びアッシリが勃興します。海の国のカルディア人はヴァン湖の周辺に建国されたウラルトゥ王国と協力しアッシリアに対抗します。これがニギハヤヒ王朝と後のウガヤ王朝の最初の出会いです。初めはアッシリアに勝利していましたが、段々に劣勢となり、ウラルトゥ王朝はウガヤ王朝に変身し陸のシルクロードを東遷します。海の国のカルディア人はヒッタイトの製鉄カーストを吸収し、アラビア海のヤードゥ族を従えてプール国となり海のシルクロードを東遷します。

 「ニギハヤヒ・穢」2

 BC二百五十六年、アレクサンダー大王の東征に従軍したユダヤ・シメオン族々長の後裔で、ペルシャ・バクトリア王国の知事に就いていたディオドトスがクーデターにより大秦国を建国し、大王の遺志を継ぎ十年後、精強なペルシャ軍団を率いて殷文化圏と称される中国に侵攻し、BC二百二十一年、中国を統一し秦帝国を建国し始皇帝と称します。その余波を受け、華北山西省に趙国・大扶余を建てていた伯族・ウガヤ王朝は満州に逃れ松花江河畔の農安に北扶余王朝・前期王朝を建てます。(※兵馬俑はペルシャ軍団)

 一方、河南省南陽の製鉄基地にいた宛の徐※ニギハヤヒ族も秦の始皇帝の圧迫を受けて、船団を組み、いわゆる天の鳥船に乗って、遼河の流域に移動し徐珂殷を建国します。

 北倭記 第三十五章 穢君南閭蒔

「是に於て、𥈞、漢に反故せんことを要む。漢、但巫志を去り、心甚しく之を啣む。徐珂王淮骨令南閭峙殷のために讐を報ぜんと欲し、之れを漢に諮る。漢、郡とせざるを誓い、許すに王印を以て證となす。洛莵出るに及び、南閭峙、憤恚して自刎す。子・淮骨令蔚祥蒔、襲うて遼東を破り、その守・彭吾を斬り潘耶に合す。潘耶乃ち大なり」

 解

「こうなると、満は漢に約束の取消を求めた。そこで漢は塔子河を去ったが、心中恨みを深くした徐珂王アクリナロシ(淮骨令南閭峙)は殷のために仇を討とうと欲し、これを漢に計った。漢は郡を置かないと約束し、王印を与えて誓った。ところが漢は楽浪・玄菟の二郡をおいたのでナロシは怒って自刃した。子アクリイサシ(淮骨令蔚祥蒔)は襲って遼東を敗り、郡守の彭吾を斬り殺して、国を率いて扶余に合した。扶余は強大になった」

 注

「アグリ」はドラヴィタ族の一派というゴードン族のなかのサブカーストのアグリアという鉄工部族を指します。別にインドには製塩カーストでアグリアーというのもあります。

「アグリ」はニギハヤヒの姓で、後に熊本で神武と戦った時、「アグリ」の姓を謙譲します。以後、ウガヤ王家の姓になります。百済もアグリ(余)姓です。

 

 「ニギハヤヒ・穢」1

 満州にあった北扶余前期王朝は神武に繋がるウガヤ王朝で中国史では伯族と称され、その後を襲った後期王朝はニギハヤヒ王朝で中国史では穢族と称されています。併せて穢伯と呼ばれました。

 「天神本記」の有名なくだりに、

 天照大神皇太子尊に謂って曰く。「豊葦原千秋長瑞穂国は、乃ち吾が皇太子・正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊のまさに以て知るべきの地なり。爾皇子宜しく往きて之を知るべし」と。

 此れ、日嫡を以て吾が国主と為すを説くの元なり。

 皇太子尊、巳に詔命を奉じて天を降るの時高皇産霊尊の女……を以て、皇妃となし、而して天照地照天火明梳玉饒速日尊を生む。

 天照大神、乃ち饒速日尊に天璽瑞宝十宝を賜う。……乃ち三十二神をして供奉して之を衛護せしむ。

※三十二神記載省略、二十五部の記載省略。

 此れ、君行き臣従ふを説くの元なり。

 饒速日尊、巳に天照大神の詔を奉じ、乃ち天の磐船に乗りて太虚空を翔け、以て此の国を巡視して河内国河上の哮峯に降り、乃ち曰く。「虚空所見日本国はこれか」と。

 然して後に大和国鳥見白庭山に遷る。

 とあり、ウガヤ王朝が陸のシルクロードを東遷し満州北扶余に到達し、ニギハヤヒ王朝が海のシルクロードを東遷し各地の部族を従え列島に至った歴史を反映している。

 北倭記・三十一章 除珂殷おこる

「是よりさき、宛の除、海を濟り、舶臻し、殷に倚り、宛難に居り、地を闢くこと數百千里、弦牟達に築き、昆莫城と稱し、國を徐珂殷と號す」

  解

「これよりさき、(河南省の製鉄部族)宛の徐(※ニギハヤヒ族)氏が船団を組み、海を渡り、箕子朝鮮を頼り、塔子河流域にいて数百千里の地を開いた、そして魔天嶺に城を作ってコマ城と称し、国をシャカ殷(シャキイ族の殷)と名づけた(これが中国史の穢国である)」

 「渤海・契丹」6

『唐書』列伝契丹によれば「契丹はもと東湖種」とあり。契丹族は東湖の末であるが、『倭人興亡史』は東湖とは箕子朝鮮であるとしている。契丹は秦漢のとき、匈奴に破られるも鮮卑山の地を保った。三国-魏の青龍中、その酋長阿比能が魏に殺されて衰微したが後魏に至り、契丹と号して漢水の南、黄龍の北を保った。唐の時、分かれて八部となり、部の長を大人といった。高梁の時、耶律阿保機が八部をあわせ、庫莫奚及び渤海を破り、室韋・女真を侵し、また突厥の地を奪い、今の蒙古・東三省・熱河省・綏西省、及び河北省の北部の地を有し、勢い強大となった。後晋の時、国号を遼と改めたが、のち、女真の金氏に滅ぼされた。

 再び倭人興亡史に戻り、第二十~第三十九章までは、「賁弥国氏州鑑」賛が中心で『史記』の三皇五帝時代から夏殷を経て、満州にあった箕子朝鮮の歴史を中心として記録し、さらに河南省南陽(苑)の除氏という一族が満州に亡命して建てた除珂殷、すなわち中国史の穢国にふれ、ついで匈奴にふれたあと、箕子朝鮮が燕人衛満の偽計によって滅んだのち、その上将卓が馬韓の月支国に亡命してたてた辰国の歴史を記録し、第四十章は『州鮮記』によって邪馬壱国の宗女壱与の任那建国を述べている。

 第三十七章は辰国の卓王の姓を賁弥氏と書いているが、本書の歴史部分の殆んどが『賁弥国氏州鑑』であり、しかもその前史を意味する「鑑」である。このことは、契丹民族が賁弥氏の子孫だと主張していると考えて良い、すなわち殷と箕子朝鮮の王家が賁弥氏で、従って月支国の辰王卓も賁弥氏、邪馬壱国の卑弥呼と壱与も賁弥氏、そして契丹王家の耶律部も賁弥氏ということである。

 いったい、卑弥呼の名について、学者はフイミョウと読むなどと論じながら、それがどんな意味を持つか論じなかった。卑弥呼、賁弥氏、賁弥国氏は同じ意味ではないだろうか。

 「賁弥国氏」の「国」は第二十八章の「督坑賁国密矩(とこひこみこ)」とおなじく表音であって、通じてフェニキア氏ということになり「卑弥呼」と「賁弥国」は同じ意味だったのである。

 従って『賁弥国氏州鑑』はフェニキア族国家の前史ということだ『州鮮記』とはフェニキア族国家新史ということになる。フェニキア人は自分達の歴史を書かないことで有名な民族だったから、フェニキア人の史書が存在するということは、実に世界史の中でも希有なことである。

 「渤海・契丹」5

 鹿島昇氏は著書で概ね次の様に述べています。

「契丹三族のうち、室韋蒙瓦部は雲南省の瓦部と同族で、満州に残留した北倭人です。さらに、同じ北倭人の庫莫奚は扶余濊族のことだという。片や契丹の王妃族蕭氏と沖縄の尚氏はナーガ族で沖縄及び日本の仲・中曽根氏・阿倍氏なども同族(南倭人)です。

 筆者が訳した『桓檀古記』によれば、渤海国は伯族扶余の末王依羅が倭国に逃れて倭王(崇神)になったあと、遺民が北沃沮の地(日本海寄りの咸鏡歩北道)に逃れてその人々が大仲像を擁して建てた国だという。それらのことが明らかになったので、今回、本書の書名を『契丹北倭記』として再び世に問うに至った。しかし、本書の書名は『契丹古伝』または『渤海古伝』としたほうが分かりやすいかも知れない」

『契丹北倭記』は、第一章から第十章までが檀君神話であり、次に第十九章まで神祖(扶余族々長)の建国史が述べられている。すなわち、三世紀以降高句麗の支配下で、扶余王仇台(罽須)が南下して伯済国→百済を建てて仇首となり、さらに北九州の前原市に伊都国をたてて一大率(神武)となった。このとき委奴国(吉野ヶ里の北朝系亡命ユダヤ人諸族)との戦いには、神武族(ウガヤ王朝の扶余族)が帯方郡から南下して、日向の公孫氏の投馬国(安羅)と同盟して戦ったお陰で勝利します。さらに、余勢を駆って熊本で多婆羅国を建てていた濊族のニギハヤヒ軍団と戦い、いったんは敗れたものの、高倉下命(東表国エビス王・安日彦)の仲裁で和睦した。

 神武の死後、再び「倭の大乱」が起こるが、伊都国(筑紫)、多婆羅国(熊本)、安羅国(日向)の諸王が図って倭人連合の邪馬壱国(『魏志』倭人伝のいう邪馬台国)を建国し、神武王妃卑弥呼(公孫度の宗女)を推戴して女王とした、その後の『北倭記』の記録は、日向西都原に都を定めた女王卑弥呼が北倭人を率いて沖縄を本拠とする長髄彦の狗奴国水軍(南倭人)と抗争した歴史です。

 長髄彦とは新羅朴氏の祖・南海次々雄のことだから、三世紀以降の沖縄は朴氏の植民地であった。本書は、この朴氏の狗奴国(南倭人)を契丹族の祖としている。本書が契丹の先祖であるとする「キキタエ」はバアル教の神官であり、牛トーテム族という契丹王妃族の蕭氏が「キキタエ」の家系でした。

 また、『東日流外三郡史』によれば、長髄彦の子孫が津軽で荒吐五王国を建てたという。つまり、古代の津軽地方もまた契丹と同じくナーガ族の植民地だったのです。

 『契丹北倭記』のなかで、最も長文である「賁弥国氏州鑑」の書名にはフェニキア人国家の前史という意味があり、邪馬壱国誕生以前の歴史を述べています。邪馬壱国の王家は遼東の公孫氏ですが、日本史では大物主命となっています。

 

 「渤海・契丹」4

 耶律羽之は東丹国で旧渤海の史官を動員して修史を試み、その結果、四十六章からなる史書を完成させますが、この貴重な史書は難解なためか世に現れず、久しく埋もれて識られなかった。この史書を世に出したのは、陸軍経理将校の浜名寛裕です。

 浜名は1904年(明治三十七年)日露戦争当時、奉天(瀋陽)郊外のラマ寺で、この文書を発見し、その研究をライフワークとして二十年に及ぶ研究を続け、自ら解読しました。そして、この文書は倭人(日本人)のことと韓人(朝鮮人)のことを記録していることを識り、1926年(昭和元年)に「日韓世宗溯源」と名付けて発表します。

 古文書は契丹文字を漢字によって記録する「万葉集」などと同じ様式によって書かれていました。契丹に限らず、このことは日鮮でも広く行われた様式です。918年契丹と同じように建国し、後に契丹国に続いて元帝国に服属した高麗も、15世紀のハングル誕生以前は同様に漢字を使用し、これを吏読(リト)と称して金石文や歌謡あるいは公用文に使っていました。

 浜名は、さらに古文書の用語であった渤海語と日本語の口語の類似性に気づき、吏読方式の本文を、ほぼ完全に訓読しました。古文書を読めば、その用語が日本語と類似していることを不思議に思うでしょう。「続記」では渤海の使節が来日したとき、ほとんど通訳を入れずに公卿たちと会談していたと書かれています。同じ系統の言語だったのです。

 実は日本古代の北倭語と渤海語はともに馬韓語から分かれた言語でした。馬韓語と渤海語は後に死語となりますが、古文書成立の過程を考えると、耶律羽之が東丹国(渤海)と契丹の融合を図るためあえて渤海の口語で書いたとすれば言語の類似性はおかしくありません。

 分かり易く言えば北倭語は扶余族・馬韓系の方言と言えます。今日私達が古文書を研究出来るのは、まさに浜名寛裕氏の労作のお陰です。