「ニギハヤヒ・穢」2

 BC二百五十六年、アレクサンダー大王の東征に従軍したユダヤ・シメオン族々長の後裔で、ペルシャ・バクトリア王国の知事に就いていたディオドトスがクーデターにより大秦国を建国し、大王の遺志を継ぎ十年後、精強なペルシャ軍団を率いて殷文化圏と称される中国に侵攻し、BC二百二十一年、中国を統一し秦帝国を建国し始皇帝と称します。その余波を受け、華北山西省に趙国・大扶余を建てていた伯族・ウガヤ王朝は満州に逃れ松花江河畔の農安に北扶余王朝・前期王朝を建てます。(※兵馬俑はペルシャ軍団)

 一方、河南省南陽の製鉄基地にいた宛の徐※ニギハヤヒ族も秦の始皇帝の圧迫を受けて、船団を組み、いわゆる天の鳥船に乗って、遼河の流域に移動し徐珂殷を建国します。

 北倭記 第三十五章 穢君南閭蒔

「是に於て、𥈞、漢に反故せんことを要む。漢、但巫志を去り、心甚しく之を啣む。徐珂王淮骨令南閭峙殷のために讐を報ぜんと欲し、之れを漢に諮る。漢、郡とせざるを誓い、許すに王印を以て證となす。洛莵出るに及び、南閭峙、憤恚して自刎す。子・淮骨令蔚祥蒔、襲うて遼東を破り、その守・彭吾を斬り潘耶に合す。潘耶乃ち大なり」

 解

「こうなると、満は漢に約束の取消を求めた。そこで漢は塔子河を去ったが、心中恨みを深くした徐珂王アクリナロシ(淮骨令南閭峙)は殷のために仇を討とうと欲し、これを漢に計った。漢は郡を置かないと約束し、王印を与えて誓った。ところが漢は楽浪・玄菟の二郡をおいたのでナロシは怒って自刃した。子アクリイサシ(淮骨令蔚祥蒔)は襲って遼東を敗り、郡守の彭吾を斬り殺して、国を率いて扶余に合した。扶余は強大になった」

 注

「アグリ」はドラヴィタ族の一派というゴードン族のなかのサブカーストのアグリアという鉄工部族を指します。別にインドには製塩カーストでアグリアーというのもあります。

「アグリ」はニギハヤヒの姓で、後に熊本で神武と戦った時、「アグリ」の姓を謙譲します。以後、ウガヤ王家の姓になります。百済もアグリ(余)姓です。

 

 「ニギハヤヒ・穢」1

 満州にあった北扶余前期王朝は神武に繋がるウガヤ王朝で中国史では伯族と称され、その後を襲った後期王朝はニギハヤヒ王朝で中国史では穢族と称されています。併せて穢伯と呼ばれました。

 「天神本記」の有名なくだりに、

 天照大神皇太子尊に謂って曰く。「豊葦原千秋長瑞穂国は、乃ち吾が皇太子・正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊のまさに以て知るべきの地なり。爾皇子宜しく往きて之を知るべし」と。

 此れ、日嫡を以て吾が国主と為すを説くの元なり。

 皇太子尊、巳に詔命を奉じて天を降るの時高皇産霊尊の女……を以て、皇妃となし、而して天照地照天火明梳玉饒速日尊を生む。

 天照大神、乃ち饒速日尊に天璽瑞宝十宝を賜う。……乃ち三十二神をして供奉して之を衛護せしむ。

※三十二神記載省略、二十五部の記載省略。

 此れ、君行き臣従ふを説くの元なり。

 饒速日尊、巳に天照大神の詔を奉じ、乃ち天の磐船に乗りて太虚空を翔け、以て此の国を巡視して河内国河上の哮峯に降り、乃ち曰く。「虚空所見日本国はこれか」と。

 然して後に大和国鳥見白庭山に遷る。

 とあり、ウガヤ王朝が陸のシルクロードを東遷し満州北扶余に到達し、ニギハヤヒ王朝が海のシルクロードを東遷し各地の部族を従え列島に至った歴史を反映している。

 北倭記・三十一章 除珂殷おこる

「是よりさき、宛の除、海を濟り、舶臻し、殷に倚り、宛難に居り、地を闢くこと數百千里、弦牟達に築き、昆莫城と稱し、國を徐珂殷と號す」

  解

「これよりさき、(河南省の製鉄部族)宛の徐(※ニギハヤヒ族)氏が船団を組み、海を渡り、箕子朝鮮を頼り、塔子河流域にいて数百千里の地を開いた、そして魔天嶺に城を作ってコマ城と称し、国をシャカ殷(シャキイ族の殷)と名づけた(これが中国史の穢国である)」

 「渤海・契丹」6

『唐書』列伝契丹によれば「契丹はもと東湖種」とあり。契丹族は東湖の末であるが、『倭人興亡史』は東湖とは箕子朝鮮であるとしている。契丹は秦漢のとき、匈奴に破られるも鮮卑山の地を保った。三国-魏の青龍中、その酋長阿比能が魏に殺されて衰微したが後魏に至り、契丹と号して漢水の南、黄龍の北を保った。唐の時、分かれて八部となり、部の長を大人といった。高梁の時、耶律阿保機が八部をあわせ、庫莫奚及び渤海を破り、室韋・女真を侵し、また突厥の地を奪い、今の蒙古・東三省・熱河省・綏西省、及び河北省の北部の地を有し、勢い強大となった。後晋の時、国号を遼と改めたが、のち、女真の金氏に滅ぼされた。

 再び倭人興亡史に戻り、第二十~第三十九章までは、「賁弥国氏州鑑」賛が中心で『史記』の三皇五帝時代から夏殷を経て、満州にあった箕子朝鮮の歴史を中心として記録し、さらに河南省南陽(苑)の除氏という一族が満州に亡命して建てた除珂殷、すなわち中国史の穢国にふれ、ついで匈奴にふれたあと、箕子朝鮮が燕人衛満の偽計によって滅んだのち、その上将卓が馬韓の月支国に亡命してたてた辰国の歴史を記録し、第四十章は『州鮮記』によって邪馬壱国の宗女壱与の任那建国を述べている。

 第三十七章は辰国の卓王の姓を賁弥氏と書いているが、本書の歴史部分の殆んどが『賁弥国氏州鑑』であり、しかもその前史を意味する「鑑」である。このことは、契丹民族が賁弥氏の子孫だと主張していると考えて良い、すなわち殷と箕子朝鮮の王家が賁弥氏で、従って月支国の辰王卓も賁弥氏、邪馬壱国の卑弥呼と壱与も賁弥氏、そして契丹王家の耶律部も賁弥氏ということである。

 いったい、卑弥呼の名について、学者はフイミョウと読むなどと論じながら、それがどんな意味を持つか論じなかった。卑弥呼、賁弥氏、賁弥国氏は同じ意味ではないだろうか。

 「賁弥国氏」の「国」は第二十八章の「督坑賁国密矩(とこひこみこ)」とおなじく表音であって、通じてフェニキア氏ということになり「卑弥呼」と「賁弥国」は同じ意味だったのである。

 従って『賁弥国氏州鑑』はフェニキア族国家の前史ということだ『州鮮記』とはフェニキア族国家新史ということになる。フェニキア人は自分達の歴史を書かないことで有名な民族だったから、フェニキア人の史書が存在するということは、実に世界史の中でも希有なことである。

 「渤海・契丹」5

 鹿島昇氏は著書で概ね次の様に述べています。

「契丹三族のうち、室韋蒙瓦部は雲南省の瓦部と同族で、満州に残留した北倭人です。さらに、同じ北倭人の庫莫奚は扶余濊族のことだという。片や契丹の王妃族蕭氏と沖縄の尚氏はナーガ族で沖縄及び日本の仲・中曽根氏・阿倍氏なども同族(南倭人)です。

 筆者が訳した『桓檀古記』によれば、渤海国は伯族扶余の末王依羅が倭国に逃れて倭王(崇神)になったあと、遺民が北沃沮の地(日本海寄りの咸鏡歩北道)に逃れてその人々が大仲像を擁して建てた国だという。それらのことが明らかになったので、今回、本書の書名を『契丹北倭記』として再び世に問うに至った。しかし、本書の書名は『契丹古伝』または『渤海古伝』としたほうが分かりやすいかも知れない」

『契丹北倭記』は、第一章から第十章までが檀君神話であり、次に第十九章まで神祖(扶余族々長)の建国史が述べられている。すなわち、三世紀以降高句麗の支配下で、扶余王仇台(罽須)が南下して伯済国→百済を建てて仇首となり、さらに北九州の前原市に伊都国をたてて一大率(神武)となった。このとき委奴国(吉野ヶ里の北朝系亡命ユダヤ人諸族)との戦いには、神武族(ウガヤ王朝の扶余族)が帯方郡から南下して、日向の公孫氏の投馬国(安羅)と同盟して戦ったお陰で勝利します。さらに、余勢を駆って熊本で多婆羅国を建てていた濊族のニギハヤヒ軍団と戦い、いったんは敗れたものの、高倉下命(東表国エビス王・安日彦)の仲裁で和睦した。

 神武の死後、再び「倭の大乱」が起こるが、伊都国(筑紫)、多婆羅国(熊本)、安羅国(日向)の諸王が図って倭人連合の邪馬壱国(『魏志』倭人伝のいう邪馬台国)を建国し、神武王妃卑弥呼(公孫度の宗女)を推戴して女王とした、その後の『北倭記』の記録は、日向西都原に都を定めた女王卑弥呼が北倭人を率いて沖縄を本拠とする長髄彦の狗奴国水軍(南倭人)と抗争した歴史です。

 長髄彦とは新羅朴氏の祖・南海次々雄のことだから、三世紀以降の沖縄は朴氏の植民地であった。本書は、この朴氏の狗奴国(南倭人)を契丹族の祖としている。本書が契丹の先祖であるとする「キキタエ」はバアル教の神官であり、牛トーテム族という契丹王妃族の蕭氏が「キキタエ」の家系でした。

 また、『東日流外三郡史』によれば、長髄彦の子孫が津軽で荒吐五王国を建てたという。つまり、古代の津軽地方もまた契丹と同じくナーガ族の植民地だったのです。

 『契丹北倭記』のなかで、最も長文である「賁弥国氏州鑑」の書名にはフェニキア人国家の前史という意味があり、邪馬壱国誕生以前の歴史を述べています。邪馬壱国の王家は遼東の公孫氏ですが、日本史では大物主命となっています。

 

 「渤海・契丹」4

 耶律羽之は東丹国で旧渤海の史官を動員して修史を試み、その結果、四十六章からなる史書を完成させますが、この貴重な史書は難解なためか世に現れず、久しく埋もれて識られなかった。この史書を世に出したのは、陸軍経理将校の浜名寛裕です。

 浜名は1904年(明治三十七年)日露戦争当時、奉天(瀋陽)郊外のラマ寺で、この文書を発見し、その研究をライフワークとして二十年に及ぶ研究を続け、自ら解読しました。そして、この文書は倭人(日本人)のことと韓人(朝鮮人)のことを記録していることを識り、1926年(昭和元年)に「日韓世宗溯源」と名付けて発表します。

 古文書は契丹文字を漢字によって記録する「万葉集」などと同じ様式によって書かれていました。契丹に限らず、このことは日鮮でも広く行われた様式です。918年契丹と同じように建国し、後に契丹国に続いて元帝国に服属した高麗も、15世紀のハングル誕生以前は同様に漢字を使用し、これを吏読(リト)と称して金石文や歌謡あるいは公用文に使っていました。

 浜名は、さらに古文書の用語であった渤海語と日本語の口語の類似性に気づき、吏読方式の本文を、ほぼ完全に訓読しました。古文書を読めば、その用語が日本語と類似していることを不思議に思うでしょう。「続記」では渤海の使節が来日したとき、ほとんど通訳を入れずに公卿たちと会談していたと書かれています。同じ系統の言語だったのです。

 実は日本古代の北倭語と渤海語はともに馬韓語から分かれた言語でした。馬韓語と渤海語は後に死語となりますが、古文書成立の過程を考えると、耶律羽之が東丹国(渤海)と契丹の融合を図るためあえて渤海の口語で書いたとすれば言語の類似性はおかしくありません。

 分かり易く言えば北倭語は扶余族・馬韓系の方言と言えます。今日私達が古文書を研究出来るのは、まさに浜名寛裕氏の労作のお陰です。

 「渤海・契丹」3

 第十代の王として初代高王の弟の大野勃四世の孫の宣王大仁秀が立ち、建興と改元し、新しい気運を開きます。新唐書(巻二百十九)渤海伝には「仁秀頗討伐東北諸部、開大境宇」と記しているのに徴しても、その領土の拡大が知られる。

 宣王は八百三十年に没し、その後は宣王の子孫が継承します。渤海の王統は宗家の大祚栄の統から分家ともいうべき大野勃の血統に移り、四王を経て最後の第十五代の大諲譔に至ります。当時明らかなことは、中原記録に欠けるところがあるのを憾みとしますが、遼史(巻七十五)耶律羽之伝によれば大諲譔時代には大官貴族間の権力争いや不和の事情が揣摩できるし、高麗史太祖世家には渤海の大官の来投等のこともみられるので、国政上の不穏の事件が、その統制を紊すものであろうことが推測されます。これが契丹の太祖耶律阿保機をして、九百二十六年一挙に国都忽汗城の攻陥、大諲譔の降伏、王国の滅亡とならしめる原因となったであろう。

 かくして内蒙古シラムレン河域に拠った、契丹族の耶律阿保機は満鮮に亙って二百年の支配を続けた渤海国を支配することになります。しかし、阿保機はこの地を直領とせず、長子突欲(倍)に与えて新たに東丹国として、これに治めせしめ、契丹の宿臣、渤海の旧宰相を併せて用いて、その国政に当たらせ、大諲譔は遼の国都に移治した。しかし阿保機は凱旋の途で没し、東丹王突欲はその柩に従って本国に引き揚げ、東丹国も遼陽に移治したので渤海の旧土は小勢力の分立紛争に委ねられます。

 「渤海・契丹」2

 唐の則天武后の自立で、唐の東北における支配に動揺が起こったのに乗じ、六百九十六年遼西営州(熱河省朝暘)にいた契丹族の酋長李尽忠が、営州都督を殺して、唐に叛いた騒動を機とし、かねて高句麗滅後、同地方に移置されていた高句麗系の白山靺鞨人の大祖栄というものが、遼河を渡って東走し、まず長白山東北の白山靺鞨部の旧地に根拠を固め、六百九十八年に震国を建てたのがこの国の創基です。

 この大祚栄が初代の高王で、次第に粟末靺鞨や高句麗の故地を服して勢力を張ります。唐の玄宗の時、七百十三年に高王を渤海郡王に封じたので、爾後この渤海を国号とします。高王についで、その子の武王が立ち、中国に倣い仁安と建元し、国家体制を整えると共に、その領土の拡張を図ります。武王は兵を出して山東沿岸を掠め、地方官を殺したので、唐は新羅に命じて渤海の南辺を侵略させます。

 この対唐関係が起こった時期に、わが日本への通交が武王によって始められます。もっとも武王は唐に対して武力抵抗はしますが、一面には唐に朝貢の礼をとることを忘れず、文物の輸入、物資の交易のための遣使は続けます。

 武王についで文王大欽茂が立ち、大興と改元します。王は七百三十七年から七百九十四年の在位で実に五十七年、渤海二百二十八年の存続中の四分の一を占め、領土の開拓、文物の整備のあったことは、唐が王を渤海国王に進封したことと、実質的な国力の発展が唐に認められた結果でもあったろうか。王の一代における、日本国との国交は極めて頻繁となりました。

  「渤海・契丹」1

 神亀四年(AD727年)聖武天皇の姉で皇后の光明子に皇子が生まれ(実の父は百済王敬福)、十二月二十日、満州にある新興の渤海国から使節が突然、入京し渤海国と日本国は親戚である。皇子誕生に山のような土産を持参し友好国として親戚付き合いしましょうと言ってきました。

 渤海国の建国は両国のあずかり知らないことでしたが唐・新羅の植民地になっていた日本国の奈良朝廷が短期間にその状態から脱することの契機になります。新羅国は渤海国の建国の対応に追われ植民地日本の政情をウオッチングできなくなり、衰退し消滅します。

 翌年の渤海使の国書には渤海は扶余の後継者であり、日本もまた扶余の後継者であり、両国は本枝の関係にあると書いています。

 明治時代、朝鮮総督府が東大史学の創始者・黒板勝美教授などを動員して朝鮮中の史書を焚書させた中に桓檀古記という史書があり、太白教徒が命懸けで守った書です。その中に渤海国史「大震国本紀」が残っていて、次の様に述べています。

 正州は依慮の国都とする所なり、鮮卑・慕容廆のために敗られ、憂迫して自裁せんとし、忽ち念ず。「我が魂、尚未だ泯びざれば、則ち何ぞ往きて成らざらんか」と。

 密かに子・依羅に噣ね、白狼山を踰えて夜海口を渡らしむ。従う者数千、遂に渡り倭人を定めて王と為る。自ら三神の符命に応ずと為すを以て、群臣をして賀儀を献ぜしむ。或いは云う「依慮王、鮮卑の為に敗られ、逃れて海に入りて還らず。子弟走りて北沃沮を保つ。

 明年、子・依羅立つ。事後、慕容廆、また復び国人を侵掠す。依羅、衆数千を率い、海を越え遂に倭人を定めて王と為る」と。

 日本旧くは伊国に有り、亦伊勢と曰い、倭と同隣す。伊都国は筑紫に在りて亦即ち日向国なり。※以下略

 ここに登場する扶余国王依慮の子「依羅が倭王になった」とすれば、それはいわゆる「イリ王朝」の御間木入彦、すなわち崇神以外にないのすが、この王朝の三種の神器はこの時、聖武の所有になっていた。一方、依慮王の子弟が「北沃沮を保った」のが渤海の始まりであった。渤海国が扶余の子孫であり、日本と本枝の関係にあると主張したのは、まさにこのことを言ったのである。果たせるかな日本と渤海の親交は渤海国滅亡まで二百年の間継続し、渤海はこの間、三十四回使節を日本に派遣しました。

  「不比等」6

 聖武天皇は病弱(セミノール病)であったため、実権は姉である光明子(皇后)が握り、大仏用の黄金を献上した陸奥守(百済王敬福)を内裏(代理)天皇にして政務を執らせていた。光明子と敬福の間に三人の子が生まれ、その長女(高野姫)を第四十六代孝謙天皇に即位させます。以来、日本の諸国に国分寺、国分尼寺を建立する勅命が出され各地に寺院・仏閣が建てられた。。

 奈良東大寺の本尊・毘盧遮那仏(十五メートル/いわゆる奈良の大仏さん)の建造は従来の国史によれば、天平十三年(七百四十一年)第四十五代聖武天皇が信楽宮(滋賀県)で発願され、行基に大勧進を命じたためと伝えられているが、実際には唐・新羅占領軍(奈良総督府)の命令によるものであった。

 当時の「日本国」という植民地行政において、国家財政を傾けるほどの大事業であった。”大仏の鋳造”は生易しいものではなく、聖武天皇の平城京還御によって、現在地に移されている。そして八度の改鋳(八回に及ぶ改修)を経て、ようやく天平勝報宝元年(七百四十九年)完成されたといわれている。当時の日本の人口は約五百万人と推定されるが、そのうちの約二百六十万人の喜捨(奉納金)を得て着工され、延べ人員八十万人の奴隷(倭人)を強制動員して作られた。

 その二年後の七百五十一年には、金堂(金ぴかの大仏殿)も完成したので、翌七百五十二年聖武上皇・光明皇太后・孝謙天皇以下が臨御して開眼供養が営まれた。そして新羅僧良弁(華厳宗の第二祖)が初代別当に任命され、華厳宗総本山になった。なお、別に、大華厳寺・城大寺・総国分寺・金光明四天王護国之寺などの呼び名ある。こうして東大寺は日本仏教の中心となった。

 東大寺の本尊・毘盧遮那仏は唐の三代皇帝高宗がモデルといわれ、天平勝報宝四年四月の奈良東大寺の「大仏開眼落成供養会」は唐・新羅占領軍及び天皇家(不比等・宮子のユダヤ王朝)のバラモン(神官・僧侶)、クシャトリア(ヤドウ族の花郎軍団)による「日本占領記念」式典の様相であった。

 翌年の天平勝報宝五年(七百五十三年)正月、唐の学僧鑑真が来日し、律宗を伝えた。従来の「広辞苑」には「入唐僧栄叡らの請いにより暴風・失明などの苦難をおかして来日、東大寺に初めて戒壇を設け、聖武上皇以下に受戒。のちに戒律道場として唐招提寺を建立、大和上の号を賜うとある。

 だが、大仏開眼供養会の翌年にタイミング良く唐僧・鑑真が来日し、金堂の前に戒壇を設け上皇天皇以下を受戒させ、勅命により戒壇院が建立されたというのは、いかにも手回しが良すぎたのではないか?以上を総合すると、淡海三船の撰述になる「唐大和上東征伝」の主題は鑑真一行渡海の経緯を述べることではなく、唐仏教界の日本への侵攻作戦、すなわち東征を語ることにあったと思われる。

 日本にも、秦王国・俀国の時代から、貴族や僧侶受度・受戒の儀式が全くなかったわけではない。すでに「俀国」は法王・天子が治める国であった。

 しかし、鑑真の来朝で達成されたことは、中国・大乗仏教の正式な常設戒壇院の設置と外来僧十師を揃えた受戒の儀式、ならびにその組織の確立という点にあった。

 彼らの一大プロジェクトを組んでの戒律伝道の行為は、唐王朝の命令と新羅奈良朝廷の要請によるものであったと見て間違いないであろう。

 しかしながら、新羅本国政府は六百九十八年の渤海国(実は後高句麗国)の建国対策に追われ忙しく、植民地日本の政情を子細に検討する余裕がなくなります。その後、急速に日本への影響力を失い、やがて衰退し滅びます。そしてウガヤ王朝末裔の桓武天皇が平安京に都を移し藤原氏が中心の絢爛華麗な貴族社会となる平安時代が始まります。

  「不比等」5

 若きシメオン族々長の不比等とガド族の姫・宮子と結婚を仲人したレビ族の郭務悰の三人の血が長男の南家、次男の北家、三男の式家、四男の京家の藤原四家を誕生させた。

 不比等と宮子の五男が聖武となりミカドと呼ばれ、姉の光明子が皇后となり実権を握ります。七百四十九年、聖武天皇の譲位により孝謙天皇が誕生しますが、孝謙は光明子と百済王敬福の間に生まれた子でした。世間では高野姫と呼ばれた若き姫・孝謙天皇は美男の道鏡(敬福の四男)との間に子を作り、その子が山部親王となり、桓武天皇になります。百済政権の誕生です。平安時代はウガヤ王朝と藤原氏の合同政権です。神武と卑弥呼の血の復活です。無血クーデターです。

 紀元前千年頃、メソポタミアのイシン王国の末期にフェニキア人の海の国・マカンがアッシリアと戦った結果、アッシリアのシャルマネサル二世の攻撃でイシンが滅びアラム人は北方のトルコのヴァン湖の周辺に退きヒッタイト人とフェニキア人が混血したアラム人のウラルトゥ王朝(初代男王・アマテル)が誕生し、その後ウガヤ王朝に変遷しながら、陸のシルクロードを東遷し北支に到達、ウガヤ王朝は連綿と続きます。

 淡海三船の天皇諡号について追記します。諡号に「神」の字を付けたのは王朝の始祖。神武は東扶余から列島に渡来し博多に伊都国を建国します。ウガヤ王朝の初来日です。崇神はウガヤ王朝と東表国・エビス王朝を合体させ北九州に倭国を建国します。応神は倭の五王の初代の位置づけ。

 諡号に「武」を付けたのは征服王朝。神武は博多の大国主の委奴国を破り、博多に伊都国を建国。天武は白村江の戦いで倭国に戦勝し、息子達に列島を征服させ、奈良新羅王朝を設立します。聖武は不比等と宮子による新羅政権奪取。桓武は淡海三船の天皇諡号ではありませんが、百済ウガヤ王朝の無血クーデターで平安王朝を設立。

 淡海三船(大学頭・文章博士七百二十二年~七百八十五年・ガド族出身)は日本書紀の書かれた時代を生き、具に実態を把握できていた。淡海三船の撰述になる「唐大和上東征伝」は唐・仏教界の日本への侵攻作戦、すなわち東征を語ることにあったと思われる。