「渤海・契丹」5

 鹿島昇氏は著書で概ね次の様に述べています。

「契丹三族のうち、室韋蒙瓦部は雲南省の瓦部と同族で、満州に残留した北倭人です。さらに、同じ北倭人の庫莫奚は扶余濊族のことだという。片や契丹の王妃族蕭氏と沖縄の尚氏はナーガ族で沖縄及び日本の仲・中曽根氏・阿倍氏なども同族(南倭人)です。

 筆者が訳した『桓檀古記』によれば、渤海国は伯族扶余の末王依羅が倭国に逃れて倭王(崇神)になったあと、遺民が北沃沮の地(日本海寄りの咸鏡歩北道)に逃れてその人々が大仲像を擁して建てた国だという。それらのことが明らかになったので、今回、本書の書名を『契丹北倭記』として再び世に問うに至った。しかし、本書の書名は『契丹古伝』または『渤海古伝』としたほうが分かりやすいかも知れない」

『契丹北倭記』は、第一章から第十章までが檀君神話であり、次に第十九章まで神祖(扶余族々長)の建国史が述べられている。すなわち、三世紀以降高句麗の支配下で、扶余王仇台(罽須)が南下して伯済国→百済を建てて仇首となり、さらに北九州の前原市に伊都国をたてて一大率(神武)となった。このとき委奴国(吉野ヶ里の北朝系亡命ユダヤ人諸族)との戦いには、神武族(ウガヤ王朝の扶余族)が帯方郡から南下して、日向の公孫氏の投馬国(安羅)と同盟して戦ったお陰で勝利します。さらに、余勢を駆って熊本で多婆羅国を建てていた濊族のニギハヤヒ軍団と戦い、いったんは敗れたものの、高倉下命(東表国エビス王・安日彦)の仲裁で和睦した。

 神武の死後、再び「倭の大乱」が起こるが、伊都国(筑紫)、多婆羅国(熊本)、安羅国(日向)の諸王が図って倭人連合の邪馬壱国(『魏志』倭人伝のいう邪馬台国)を建国し、神武王妃卑弥呼(公孫度の宗女)を推戴して女王とした、その後の『北倭記』の記録は、日向西都原に都を定めた女王卑弥呼が北倭人を率いて沖縄を本拠とする長髄彦の狗奴国水軍(南倭人)と抗争した歴史です。

 長髄彦とは新羅朴氏の祖・南海次々雄のことだから、三世紀以降の沖縄は朴氏の植民地であった。本書は、この朴氏の狗奴国(南倭人)を契丹族の祖としている。本書が契丹の先祖であるとする「キキタエ」はバアル教の神官であり、牛トーテム族という契丹王妃族の蕭氏が「キキタエ」の家系でした。

 また、『東日流外三郡史』によれば、長髄彦の子孫が津軽で荒吐五王国を建てたという。つまり、古代の津軽地方もまた契丹と同じくナーガ族の植民地だったのです。

 『契丹北倭記』のなかで、最も長文である「賁弥国氏州鑑」の書名にはフェニキア人国家の前史という意味があり、邪馬壱国誕生以前の歴史を述べています。邪馬壱国の王家は遼東の公孫氏ですが、日本史では大物主命となっています。

 

 「渤海・契丹」4

 耶律羽之は東丹国で旧渤海の史官を動員して修史を試み、その結果、四十六章からなる史書を完成させますが、この貴重な史書は難解なためか世に現れず、久しく埋もれて識られなかった。この史書を世に出したのは、陸軍経理将校の浜名寛裕です。

 浜名は1904年(明治三十七年)日露戦争当時、奉天(瀋陽)郊外のラマ寺で、この文書を発見し、その研究をライフワークとして二十年に及ぶ研究を続け、自ら解読しました。そして、この文書は倭人(日本人)のことと韓人(朝鮮人)のことを記録していることを識り、1926年(昭和元年)に「日韓世宗溯源」と名付けて発表します。

 古文書は契丹文字を漢字によって記録する「万葉集」などと同じ様式によって書かれていました。契丹に限らず、このことは日鮮でも広く行われた様式です。918年契丹と同じように建国し、後に契丹国に続いて元帝国に服属した高麗も、15世紀のハングル誕生以前は同様に漢字を使用し、これを吏読(リト)と称して金石文や歌謡あるいは公用文に使っていました。

 浜名は、さらに古文書の用語であった渤海語と日本語の口語の類似性に気づき、吏読方式の本文を、ほぼ完全に訓読しました。古文書を読めば、その用語が日本語と類似していることを不思議に思うでしょう。「続記」では渤海の使節が来日したとき、ほとんど通訳を入れずに公卿たちと会談していたと書かれています。同じ系統の言語だったのです。

 実は日本古代の北倭語と渤海語はともに馬韓語から分かれた言語でした。馬韓語と渤海語は後に死語となりますが、古文書成立の過程を考えると、耶律羽之が東丹国(渤海)と契丹の融合を図るためあえて渤海の口語で書いたとすれば言語の類似性はおかしくありません。

 分かり易く言えば北倭語は扶余族・馬韓系の方言と言えます。今日私達が古文書を研究出来るのは、まさに浜名寛裕氏の労作のお陰です。

 「渤海・契丹」3

 第十代の王として初代高王の弟の大野勃四世の孫の宣王大仁秀が立ち、建興と改元し、新しい気運を開きます。新唐書(巻二百十九)渤海伝には「仁秀頗討伐東北諸部、開大境宇」と記しているのに徴しても、その領土の拡大が知られる。

 宣王は八百三十年に没し、その後は宣王の子孫が継承します。渤海の王統は宗家の大祚栄の統から分家ともいうべき大野勃の血統に移り、四王を経て最後の第十五代の大諲譔に至ります。当時明らかなことは、中原記録に欠けるところがあるのを憾みとしますが、遼史(巻七十五)耶律羽之伝によれば大諲譔時代には大官貴族間の権力争いや不和の事情が揣摩できるし、高麗史太祖世家には渤海の大官の来投等のこともみられるので、国政上の不穏の事件が、その統制を紊すものであろうことが推測されます。これが契丹の太祖耶律阿保機をして、九百二十六年一挙に国都忽汗城の攻陥、大諲譔の降伏、王国の滅亡とならしめる原因となったであろう。

 かくして内蒙古シラムレン河域に拠った、契丹族の耶律阿保機は満鮮に亙って二百年の支配を続けた渤海国を支配することになります。しかし、阿保機はこの地を直領とせず、長子突欲(倍)に与えて新たに東丹国として、これに治めせしめ、契丹の宿臣、渤海の旧宰相を併せて用いて、その国政に当たらせ、大諲譔は遼の国都に移治した。しかし阿保機は凱旋の途で没し、東丹王突欲はその柩に従って本国に引き揚げ、東丹国も遼陽に移治したので渤海の旧土は小勢力の分立紛争に委ねられます。

 「渤海・契丹」2

 唐の則天武后の自立で、唐の東北における支配に動揺が起こったのに乗じ、六百九十六年遼西営州(熱河省朝暘)にいた契丹族の酋長李尽忠が、営州都督を殺して、唐に叛いた騒動を機とし、かねて高句麗滅後、同地方に移置されていた高句麗系の白山靺鞨人の大祖栄というものが、遼河を渡って東走し、まず長白山東北の白山靺鞨部の旧地に根拠を固め、六百九十八年に震国を建てたのがこの国の創基です。

 この大祚栄が初代の高王で、次第に粟末靺鞨や高句麗の故地を服して勢力を張ります。唐の玄宗の時、七百十三年に高王を渤海郡王に封じたので、爾後この渤海を国号とします。高王についで、その子の武王が立ち、中国に倣い仁安と建元し、国家体制を整えると共に、その領土の拡張を図ります。武王は兵を出して山東沿岸を掠め、地方官を殺したので、唐は新羅に命じて渤海の南辺を侵略させます。

 この対唐関係が起こった時期に、わが日本への通交が武王によって始められます。もっとも武王は唐に対して武力抵抗はしますが、一面には唐に朝貢の礼をとることを忘れず、文物の輸入、物資の交易のための遣使は続けます。

 武王についで文王大欽茂が立ち、大興と改元します。王は七百三十七年から七百九十四年の在位で実に五十七年、渤海二百二十八年の存続中の四分の一を占め、領土の開拓、文物の整備のあったことは、唐が王を渤海国王に進封したことと、実質的な国力の発展が唐に認められた結果でもあったろうか。王の一代における、日本国との国交は極めて頻繁となりました。

  「渤海・契丹」1

 神亀四年(AD727年)聖武天皇の姉で皇后の光明子に皇子が生まれ(実の父は百済王敬福)、十二月二十日、満州にある新興の渤海国から使節が突然、入京し渤海国と日本国は親戚である。皇子誕生に山のような土産を持参し友好国として親戚付き合いしましょうと言ってきました。

 渤海国の建国は両国のあずかり知らないことでしたが唐・新羅の植民地になっていた日本国の奈良朝廷が短期間にその状態から脱することの契機になります。新羅国は渤海国の建国の対応に追われ植民地日本の政情をウオッチングできなくなり、衰退し消滅します。

 翌年の渤海使の国書には渤海は扶余の後継者であり、日本もまた扶余の後継者であり、両国は本枝の関係にあると書いています。

 明治時代、朝鮮総督府が東大史学の創始者・黒板勝美教授などを動員して朝鮮中の史書を焚書させた中に桓檀古記という史書があり、太白教徒が命懸けで守った書です。その中に渤海国史「大震国本紀」が残っていて、次の様に述べています。

 正州は依慮の国都とする所なり、鮮卑・慕容廆のために敗られ、憂迫して自裁せんとし、忽ち念ず。「我が魂、尚未だ泯びざれば、則ち何ぞ往きて成らざらんか」と。

 密かに子・依羅に噣ね、白狼山を踰えて夜海口を渡らしむ。従う者数千、遂に渡り倭人を定めて王と為る。自ら三神の符命に応ずと為すを以て、群臣をして賀儀を献ぜしむ。或いは云う「依慮王、鮮卑の為に敗られ、逃れて海に入りて還らず。子弟走りて北沃沮を保つ。

 明年、子・依羅立つ。事後、慕容廆、また復び国人を侵掠す。依羅、衆数千を率い、海を越え遂に倭人を定めて王と為る」と。

 日本旧くは伊国に有り、亦伊勢と曰い、倭と同隣す。伊都国は筑紫に在りて亦即ち日向国なり。※以下略

 ここに登場する扶余国王依慮の子「依羅が倭王になった」とすれば、それはいわゆる「イリ王朝」の御間木入彦、すなわち崇神以外にないのすが、この王朝の三種の神器はこの時、聖武の所有になっていた。一方、依慮王の子弟が「北沃沮を保った」のが渤海の始まりであった。渤海国が扶余の子孫であり、日本と本枝の関係にあると主張したのは、まさにこのことを言ったのである。果たせるかな日本と渤海の親交は渤海国滅亡まで二百年の間継続し、渤海はこの間、三十四回使節を日本に派遣しました。

  「不比等」6

 聖武天皇は病弱(セミノール病)であったため、実権は姉である光明子(皇后)が握り、大仏用の黄金を献上した陸奥守(百済王敬福)を内裏(代理)天皇にして政務を執らせていた。光明子と敬福の間に三人の子が生まれ、その長女(高野姫)を第四十六代孝謙天皇に即位させます。以来、日本の諸国に国分寺、国分尼寺を建立する勅命が出され各地に寺院・仏閣が建てられた。。

 奈良東大寺の本尊・毘盧遮那仏(十五メートル/いわゆる奈良の大仏さん)の建造は従来の国史によれば、天平十三年(七百四十一年)第四十五代聖武天皇が信楽宮(滋賀県)で発願され、行基に大勧進を命じたためと伝えられているが、実際には唐・新羅占領軍(奈良総督府)の命令によるものであった。

 当時の「日本国」という植民地行政において、国家財政を傾けるほどの大事業であった。”大仏の鋳造”は生易しいものではなく、聖武天皇の平城京還御によって、現在地に移されている。そして八度の改鋳(八回に及ぶ改修)を経て、ようやく天平勝報宝元年(七百四十九年)完成されたといわれている。当時の日本の人口は約五百万人と推定されるが、そのうちの約二百六十万人の喜捨(奉納金)を得て着工され、延べ人員八十万人の奴隷(倭人)を強制動員して作られた。

 その二年後の七百五十一年には、金堂(金ぴかの大仏殿)も完成したので、翌七百五十二年聖武上皇・光明皇太后・孝謙天皇以下が臨御して開眼供養が営まれた。そして新羅僧良弁(華厳宗の第二祖)が初代別当に任命され、華厳宗総本山になった。なお、別に、大華厳寺・城大寺・総国分寺・金光明四天王護国之寺などの呼び名ある。こうして東大寺は日本仏教の中心となった。

 東大寺の本尊・毘盧遮那仏は唐の三代皇帝高宗がモデルといわれ、天平勝報宝四年四月の奈良東大寺の「大仏開眼落成供養会」は唐・新羅占領軍及び天皇家(不比等・宮子のユダヤ王朝)のバラモン(神官・僧侶)、クシャトリア(ヤドウ族の花郎軍団)による「日本占領記念」式典の様相であった。

 翌年の天平勝報宝五年(七百五十三年)正月、唐の学僧鑑真が来日し、律宗を伝えた。従来の「広辞苑」には「入唐僧栄叡らの請いにより暴風・失明などの苦難をおかして来日、東大寺に初めて戒壇を設け、聖武上皇以下に受戒。のちに戒律道場として唐招提寺を建立、大和上の号を賜うとある。

 だが、大仏開眼供養会の翌年にタイミング良く唐僧・鑑真が来日し、金堂の前に戒壇を設け上皇天皇以下を受戒させ、勅命により戒壇院が建立されたというのは、いかにも手回しが良すぎたのではないか?以上を総合すると、淡海三船の撰述になる「唐大和上東征伝」の主題は鑑真一行渡海の経緯を述べることではなく、唐仏教界の日本への侵攻作戦、すなわち東征を語ることにあったと思われる。

 日本にも、秦王国・俀国の時代から、貴族や僧侶受度・受戒の儀式が全くなかったわけではない。すでに「俀国」は法王・天子が治める国であった。

 しかし、鑑真の来朝で達成されたことは、中国・大乗仏教の正式な常設戒壇院の設置と外来僧十師を揃えた受戒の儀式、ならびにその組織の確立という点にあった。

 彼らの一大プロジェクトを組んでの戒律伝道の行為は、唐王朝の命令と新羅奈良朝廷の要請によるものであったと見て間違いないであろう。

 しかしながら、新羅本国政府は六百九十八年の渤海国(実は後高句麗国)の建国対策に追われ忙しく、植民地日本の政情を子細に検討する余裕がなくなります。その後、急速に日本への影響力を失い、やがて衰退し滅びます。そしてウガヤ王朝末裔の桓武天皇が平安京に都を移し藤原氏が中心の絢爛華麗な貴族社会となる平安時代が始まります。

  「不比等」5

 若きシメオン族々長の不比等とガド族の姫・宮子と結婚を仲人したレビ族の郭務悰の三人の血が長男の南家、次男の北家、三男の式家、四男の京家の藤原四家を誕生させた。

 不比等と宮子の五男が聖武となりミカドと呼ばれ、姉の光明子が皇后となり実権を握ります。七百四十九年、聖武天皇の譲位により孝謙天皇が誕生しますが、孝謙は光明子と百済王敬福の間に生まれた子でした。世間では高野姫と呼ばれた若き姫・孝謙天皇は美男の道鏡(敬福の四男)との間に子を作り、その子が山部親王となり、桓武天皇になります。百済政権の誕生です。平安時代はウガヤ王朝と藤原氏の合同政権です。神武と卑弥呼の血の復活です。無血クーデターです。

 紀元前千年頃、メソポタミアのイシン王国の末期にフェニキア人の海の国・マカンがアッシリアと戦った結果、アッシリアのシャルマネサル二世の攻撃でイシンが滅びアラム人は北方のトルコのヴァン湖の周辺に退きヒッタイト人とフェニキア人が混血したアラム人のウラルトゥ王朝(初代男王・アマテル)が誕生し、その後ウガヤ王朝に変遷しながら、陸のシルクロードを東遷し北支に到達、ウガヤ王朝は連綿と続きます。

 淡海三船の天皇諡号について追記します。諡号に「神」の字を付けたのは王朝の始祖。神武は東扶余から列島に渡来し博多に伊都国を建国します。ウガヤ王朝の初来日です。崇神はウガヤ王朝と東表国・エビス王朝を合体させ北九州に倭国を建国します。応神は倭の五王の初代の位置づけ。

 諡号に「武」を付けたのは征服王朝。神武は博多の大国主の委奴国を破り、博多に伊都国を建国。天武は白村江の戦いで倭国に戦勝し、息子達に列島を征服させ、奈良新羅王朝を設立します。聖武は不比等と宮子による新羅政権奪取。桓武は淡海三船の天皇諡号ではありませんが、百済ウガヤ王朝の無血クーデターで平安王朝を設立。

 淡海三船(大学頭・文章博士七百二十二年~七百八十五年・ガド族出身)は日本書紀の書かれた時代を生き、具に実態を把握できていた。淡海三船の撰述になる「唐大和上東征伝」は唐・仏教界の日本への侵攻作戦、すなわち東征を語ることにあったと思われる。

  「不比等」4

 日本書紀の述作者解明表の話を続けます。区分のα群は唐王朝時代の正しい音に通暁した格調の整った見事な漢文で記述された唐朝標準語グループ。β群は日本へ最も古い時代に伝わってきた百済音、江南の呉音による倭習の強い和化漢文で仏教、仏典用語の多用が目立つ文章のグループ。γ群はβ群のような和音、倭僻が少なく、α群に殆ど近い正格漢文ですが、少し異なる用字僻などが見られるグループです。

 巻二十一と巻二十四の間に挿入された、巻二十二と巻二十三はα群の間に唐突にβ群が無理して挿入されています。推古紀と舒明紀です。音韻論に基づく書紀述作者割り出しの成果を表にしたら、かねてからの矛盾や疑惑が明確になりました。この二章は新羅天武朝を創設する書紀の最も肝要な部分です。唐人の大学音博士が亡くなってから編纂関係者が元興寺伽藍縁起ならびに流記資材帳を発見し相互の矛盾を調整するため、シナリオを書き換えます。しかしながら、唐人の大学音博士の続守信と薩弘格の二人が亡くなつており、やむを得ず山田史御方に執筆させます。元興寺伽藍縁起にレビ族初代の大王が広庭天皇、子・アマタリシホコが多知波奈土與比彌天皇、妹の公主が止與彌挙哥岐移比彌天皇とあるのに着想を得て、推古女帝を創出し、後の上宮聖徳を聖徳太子に仕立て、十七条の憲法を書きます。森博達氏はこれらの文章は和臭芬芬たる、唐人が読めば僻地の方言・片言と思ってしまうような低いレベルの文章にすぎず、名文どころが文法の誤りや用字の誤用も多い唐音知らなかった山田史御方の作文と切って捨てています。

 岡田英弘という歴史学者も「天武(新羅王・文武)が天武の家系の始祖である舒明即位の正当化のために、文体や音字にはっきりした倭習の特徴を持つ、巻二十二、二十三の二巻を挿入して推古即位と聖徳太子の摂関政治の話を創出した。これが『隋書』倭国伝の記述と内容が全く異なっている理由ある」と切り捨てています。

 

  「不比等」3

 六百八十年代、奈良朝廷を立ち上げた新羅占領政権は諸外国への体面上、国史編纂の必要に迫られ忍壁皇子、川島皇子等が編纂委員会を発足させます。高市皇子と郭務悰から不比等に編纂への参画を指示されます。編纂委員会と不比等の間で基本事項が協議され、奈良朝廷は大和に古くからあった。少なくとも東表国の建国に近い時期に九州から大和に東遷した。東表国、邪馬壱国、東鯷国、秦王国は存在しないこととする。各地に存在する王朝を縦に繋ぎ物語を展開する。新羅王がずっと奈良朝廷を維持する。

 それらを承けて不比等はシメオン族の偽史シンジケート集団を総動員して物語を紡いで往きました。神武東遷物語はシメオン族の二代目が九州から大和に東遷した史実に基づいて、大和に侵攻しガド族の東鯷国を打ち負かした物語をリアルに登場人物と時間を組み替えて作成します。

 大和入りした後は新羅史を下敷きに秦王国レビ族三代の大王の事跡を架空の蘇我三代に置き換え、新羅史の毗曇の乱を蹴鞠の出会いと入鹿殺しに翻案します。そして、文武天皇までの繋ぎに推古から持統を創作します。

 後世の文化人、淡海三船が天皇諡号を送っていますがユーモアたっぷりにシニカルに命名しています。持統天皇は統べるを持する。推古天皇は古を推し計る。継体天皇はウガヤ王朝と大伴王朝の国体を継ぐ、と付けています。

 京都産業大学教授で言語学者の森博達氏が「古代音韻と日本書紀の成立」という論考にたいし、言語学会から第二十回金田一京助賞が贈られています。それによると、日本書紀は最初「続守信」と「薩弘格」という唐人の大学音博士が書紀記述していましたが、二人が相次いで病死し「山田史御方」が一人で著述しますが、彼は唐に行ったことがなくて漢文を正しい唐音で読み書きする能力が無かったため倭習音による和化漢文で述作せざるを得なったのです。それらの研究により、いろんな事が明確になりました。推古は実在しない、その摂政の聖徳太子も存在しないと判断されました。

  「不比等」2

 六百九十四年、不比等は修史官として藤原宮に昇殿すると共に、新羅文武王(金法敏)の長男・草壁皇子から長子・軽皇子の傅役を頼まれます。軽皇子の母親・阿閇皇女は性格が相当にきつく、軽皇子は十七歳年上の不比等の隠れ妻の宮子に母親らしい優しさを求め、それが何時しか愛情に変わります。六百九十七年、軽皇子は十七歳で即位して祖父の名を継いで文武天皇となり、即位と同時に宮子を藤原不比等の養女という名目で入内させます。宮子は四年後の七百一年、後に聖武天皇となる首皇子を出産しますが、実の父親は不比等でした。

 七百十三年、新羅皇子・文武天皇没後、不比等は巧妙に他の配偶者から「嬪」という称号を奪い文武天皇の配偶者は宮子だけとします。その翌年「ふひと」を文字って「おびと(首)」と呼ばせた首皇子を正式な皇太子として立太子させます。その上で、不比等と宮子の間に生まれた次女・光明子・二十二歳を本妻の県の犬飼三千代との間に生まれた娘と偽り、七百十六年、十五歳になった首皇子の皇太子夫人としします。そして、首皇子は聖武天皇として即位します。ガド族・宮子の子が天皇になったので、侍女達は聖武を「御ガド→ミカド」と呼びました。新羅本国の祖父・文武王は事情が分からず曾孫が聖武天皇になったと手放しで喜びますが、新羅王族の天皇は文武天皇で終わります。

 不比等と宮子の五男である、首皇子は聖武天皇になり、その夫人となった次女の光明子は権勢比類なき光明皇后となりました。不比等のシメオン族と宮子のガド族の家系が「藤氏(唐氏)家伝」の藤原氏となります。以降、日本のエスタブリッシュメントの中枢を担い続け現代迄続いています。