「不比等」4

 日本書紀の述作者解明表の話を続けます。区分のα群は唐王朝時代の正しい音に通暁した格調の整った見事な漢文で記述された唐朝標準語グループ。β群は日本へ最も古い時代に伝わってきた百済音、江南の呉音による倭習の強い和化漢文で仏教、仏典用語の多用が目立つ文章のグループ。γ群はβ群のような和音、倭僻が少なく、α群に殆ど近い正格漢文ですが、少し異なる用字僻などが見られるグループです。

 巻二十一と巻二十四の間に挿入された、巻二十二と巻二十三はα群の間に唐突にβ群が無理して挿入されています。推古紀と舒明紀です。音韻論に基づく書紀述作者割り出しの成果を表にしたら、かねてからの矛盾や疑惑が明確になりました。この二章は新羅天武朝を創設する書紀の最も肝要な部分です。唐人の大学音博士が亡くなってから編纂関係者が元興寺伽藍縁起ならびに流記資材帳を発見し相互の矛盾を調整するため、シナリオを書き換えます。しかしながら、唐人の大学音博士の続守信と薩弘格の二人が亡くなつており、やむを得ず山田史御方に執筆させます。元興寺伽藍縁起にレビ族初代の大王が広庭天皇、子・アマタリシホコが多知波奈土與比彌天皇、妹の公主が止與彌挙哥岐移比彌天皇とあるのに着想を得て、推古女帝を創出し、後の上宮聖徳を聖徳太子に仕立て、十七条の憲法を書きます。森博達氏はこれらの文章は和臭芬芬たる、唐人が読めば僻地の方言・片言と思ってしまうような低いレベルの文章にすぎず、名文どころが文法の誤りや用字の誤用も多い唐音知らなかった山田史御方の作文と切って捨てています。

 岡田英弘という歴史学者も「天武(新羅王・文武)が天武の家系の始祖である舒明即位の正当化のために、文体や音字にはっきりした倭習の特徴を持つ、巻二十二、二十三の二巻を挿入して推古即位と聖徳太子の摂関政治の話を創出した。これが『隋書』倭国伝の記述と内容が全く異なっている理由ある」と切り捨てています。

 

  「不比等」3

 六百八十年代、奈良朝廷を立ち上げた新羅占領政権は諸外国への体面上、国史編纂の必要に迫られ忍壁皇子、川島皇子等が編纂委員会を発足させます。高市皇子と郭務悰から不比等に編纂への参画を指示されます。編纂委員会と不比等の間で基本事項が協議され、奈良朝廷は大和に古くからあった。少なくとも東表国の建国に近い時期に九州から大和に東遷した。東表国、邪馬壱国、東鯷国、秦王国は存在しないこととする。各地に存在する王朝を縦に繋ぎ物語を展開する。新羅王がずっと奈良朝廷を維持する。

 それらを承けて不比等はシメオン族の偽史シンジケート集団を総動員して物語を紡いで往きました。神武東遷物語はシメオン族の二代目が九州から大和に東遷した史実に基づいて、大和に侵攻しガド族の東鯷国を打ち負かした物語をリアルに登場人物と時間を組み替えて作成します。

 大和入りした後は新羅史を下敷きに秦王国レビ族三代の大王の事跡を架空の蘇我三代に置き換え、新羅史の毗曇の乱を蹴鞠の出会いと入鹿殺しに翻案します。そして、文武天皇までの繋ぎに推古から持統を創作します。

 後世の文化人、淡海三船が天皇諡号を送っていますがユーモアたっぷりにシニカルに命名しています。持統天皇は統べるを持する。推古天皇は古を推し計る。継体天皇はウガヤ王朝と大伴王朝の国体を継ぐ、と付けています。

 京都産業大学教授で言語学者の森博達氏が「古代音韻と日本書紀の成立」という論考にたいし、言語学会から第二十回金田一京助賞が贈られています。それによると、日本書紀は最初「続守信」と「薩弘格」という唐人の大学音博士が書紀記述していましたが、二人が相次いで病死し「山田史御方」が一人で著述しますが、彼は唐に行ったことがなくて漢文を正しい唐音で読み書きする能力が無かったため倭習音による和化漢文で述作せざるを得なったのです。それらの研究により、いろんな事が明確になりました。推古は実在しない、その摂政の聖徳太子も存在しないと判断されました。

  「不比等」2

 六百九十四年、不比等は修史官として藤原宮に昇殿すると共に、新羅文武王(金法敏)の長男・草壁皇子から長子・軽皇子の傅役を頼まれます。軽皇子の母親・阿閇皇女は性格が相当にきつく、軽皇子は十七歳年上の不比等の隠れ妻の宮子に母親らしい優しさを求め、それが何時しか愛情に変わります。六百九十七年、軽皇子は十七歳で即位して祖父の名を継いで文武天皇となり、即位と同時に宮子を藤原不比等の養女という名目で入内させます。宮子は四年後の七百一年、後に聖武天皇となる首皇子を出産しますが、実の父親は不比等でした。

 七百十三年、新羅皇子・文武天皇没後、不比等は巧妙に他の配偶者から「嬪」という称号を奪い文武天皇の配偶者は宮子だけとします。その翌年「ふひと」を文字って「おびと(首)」と呼ばせた首皇子を正式な皇太子として立太子させます。その上で、不比等と宮子の間に生まれた次女・光明子・二十二歳を本妻の県の犬飼三千代との間に生まれた娘と偽り、七百十六年、十五歳になった首皇子の皇太子夫人としします。そして、首皇子は聖武天皇として即位します。ガド族・宮子の子が天皇になったので、侍女達は聖武を「御ガド→ミカド」と呼びました。新羅本国の祖父・文武王は事情が分からず曾孫が聖武天皇になったと手放しで喜びますが、新羅王族の天皇は文武天皇で終わります。

 不比等と宮子の五男である、首皇子は聖武天皇になり、その夫人となった次女の光明子は権勢比類なき光明皇后となりました。不比等のシメオン族と宮子のガド族の家系が「藤氏(唐氏)家伝」の藤原氏となります。以降、日本のエスタブリッシュメントの中枢を担い続け現代迄続いています。

  「不比等」1

 六百七十二年、新羅占領軍総司令官・レビ族の郭務悰は飛鳥の秦王国鎮圧作戦に臨み、花郎軍団の源花・中臣氏の金庾心と情報交換した。

 郭務悰が「現大王家のレビ族を降ろした後の統治は十四代迄続いた前大王家のシメオン族を重用するのが得策かな」

 金庾心が「それなら、十三代の三男が鹿島に扶桑国を建国しており、今は直系がシメオン族の族長を務めている。目星が付いたら、大和に呼び寄せ、協力させれば良い。中臣が教育係を務めている」

 郭「なるほど。多くの豪族を押さえ込むには、もう一押し欲しいな」

 金「シメオン族とガド族が始皇帝の焚書坑儒以来、八百年に渡り抗争諍いを続けているが、秦王国の筑紫奪還作戦の折、東漢のレビ族がガド族に協力を求めている。レビ族の貴方が両者の仲直りを仲介をするのが良いのでは」

 郭「面白い。シメオン族の若き族長にガド族の娘を娶せよう」

 六百七十二年六月、郭務悰は花郎軍団を率いて大和に侵攻し、戦いながら豪族達の懐柔工作に力を割いた。鹿島にいるシメオン族の族長に大和に入るよう連絡をし、伊勢のガド族の族長にも両者和合のため適齢期の娘をシメオン族の族長に嫁がせる人選を依頼した。

 また、三輪氏、葛城氏、和邇氏、春日氏など割拠する他の豪族にも新羅占領軍政への協力を働きかけた。戦いが一月を過ぎる頃、豪族達は花郎軍団の統率ある戦いに無益な抵抗と判断し一斉に占領軍に寝返り、東漢氏レビ族を中心とする秦王国軍は孤立し総崩れします。

 郭務悰はシメオン族の若き族長とガド族巨勢(津守)氏の娘・宮子姫の結婚を仲人し、八百年を超える抗争諍いに終止符を打たせます。シメオン族の若き族長、後の藤原不比等を軍政に協力させ、不比等が三十六歳の時、修史官として昇殿させます。後の藤原氏の系図作りで、金庾心と郭務悰を合成した大織冠・藤原(中臣)鎌足を創出し、その子藤原不比等とします。不比等と宮子は三男二女を設け、後に金庾心の子を加え、表向きは四男二女としている。

「白村江の戦い」5

 白村江の戦いに圧勝した唐と新羅の連合軍は六百六十四年五月、唐の鎮将・劉仁帰が率いる四千人、及び新羅の鎮将・金庾心が率いる四千人の計八千人で倭国に侵攻し、太宰府に筑紫都督府を構え列島の占領軍政を開始。金庾心は中臣氏の故地・宇佐八幡に引き連れてきた花郎軍団を駐留させ、九州倭国の睨みとします。

 一方、六百六十八年、唐と新羅の連合軍は漢城(平壌)を陥落させ、高句麗を滅亡させます。ところが、六百七十年六月、唐軍と高句麗復興軍が衝突したのを機に、新羅は朝鮮半島全体の征服を目論む唐と対立するようになり、両軍の間に戦いが起こり、六年間続きます。その間、新羅は高安勝を高句麗王とし金馬渚に王都を置いて戦います。

 六百七十二年、新羅は唐との協定を破り、百済の熊津都督府を陥落させます。その結果、百済の王侯貴族、武士、軍属ら四万人が雪崩を打って倭国へ亡命しました。

 六百七十二年六月、占領軍総司令官の郭務悰は花郎軍団を率いて大和に侵攻します。迎え撃った東漢氏レビ族を中心とした秦王国軍は一ヶ月間も勇敢に戦いますが、シメオン族秦氏等の諸部族は花郎軍団の統率の取れた戦いぶりを見て、この戦の無意味さを悟り、一斉に寝返り新羅軍に降伏したため、王家の軍は孤立し総崩れします。降伏した豪族達は新羅側の軍政に協力します。最後まで王家に忠誠を尽くした機織部の秦氏、ダン族、蘇我氏等は秦王国分国地の関東に逃散し鹿島神宮や静神社の機織部領域付近や、蘇我、行徳、及び秦野付近に逼塞散居します。

 レビ族である郭務悰は東漢氏レビ族の秦王国王家の残留者と話し合い、東漢氏の生命はレビ第三代迄の大王墓の解体を条件に守る事で決着させます。

 六百七十三年二月、飛鳥浄御原に「新羅総督府」が樹立されます。その後、新羅の王子達がブレーンを引き連れて進駐し「奈良総督府」になります。

「白村江の戦い」4

 六百五十五年五月、唐は高句麗に出兵するも不首尾。六百六十年、唐の高宗は百済に遠征軍を向けます。三月、戦争をするために生まれてきた男、蘇定方を遠征軍十万の大総督に任命します。八月、唐陸軍は百済の国都に迫り、唐の陸軍に遅れて新羅の水軍が参戦し熊津城が陥落、百済軍は敗走します。新羅王になっていた、金春秋の武烈王は自ら五万の大軍を率いて出陣し、百済軍を破ります。百済王義慈はあっけなく降伏します。王都泗泌城の王宮に残った、卑弥呼が率いた公孫氏フェニキア系イカッサル族と神武が率いたウガヤ王朝伯族の気位の高い官女三千人が辱めを受けるのを嫌い、錦江を望む絶壁から次々と身を投げます。その様子が鮮やかな花々が落ちていく様で、後に朱に染まった岩々が落花岩と名付けられます。降伏した義慈王は俘として献じられますが、唐の高宗は洛陽の則天門楼で受け、彼を釈放しました。蘇定方は転進して高句麗に向かいます。

 百済王義慈の子、余豊璋は人質として倭国に滞在していましたが、周留城に立て籠もって唐に抵抗していた百済の遺臣、鬼室福信たちは使者を倭国に派遣し豊璋の送還と援軍を求めました。帰国した豊璋を得、倭国や高句麗の支援を受けて周留城を拠点にして連合軍と戦いますが、遺臣団に内紛が起き、国王に立てられていた豊璋が鬼室福信を殺害し、遺臣団の士気が低下します。

 六百六十三年五月、唐と新羅の連合軍四十五万人は動揺する周留城の攻撃に向かいます。唐将は劉仁願、劉仁帰、孫仁師たちです。周留城は錦江下流の白江の沿岸にあります。倭国、秦王国、荒吐五王国などの寄せ集めの水軍凡そ三万人は海から白江に入り周留城に向かいます。唐海軍と遭遇し、数度に渡り海戦が起こりますが、倭国連合水軍は指揮官不在の烏合の衆、全て唐水軍が勝利し倭国連合水軍の数千艘は海の藻屑となります。唐軍は油を染み込ませた干草を倭軍の船に投げ込み、炎上させる戦法を取り、功を奏します。九月、唐と新羅の大軍勢が周留城を陥落させます。唐の侵攻作戦は百済の残党征伐が名目でしたが、唐は主な敵を高句麗と連合する倭国に置いていましたので、周留城に立て籠もっていた百済人全てを釈放しました。百済王豊璋は高句麗へ亡命したため、百済の要人達は次々と倭国へ亡命しました。それに倣って新羅も倭人二万人を放免します。

「白村江の戦い」3

 AD4世紀頃、高句麗の広開土王は新興国新羅のSOSに弱小国支援を旗印に南征し百済と半島に進出していた安羅倭国や金官加羅と戦い勝利を納め、取って返して中原の五胡十六国の一つ燕と戦い勝利。更に北方の東扶余を討って領土を拡大、この時期の極東の最強最大国となります。しかし、五世紀中庸、後継者問題で貴族階級の対立が続き、その混乱に乗じ、新たに台頭した突厥が北から攻撃し、百済と新羅が南から攻撃したため、韓半島の中央部を新羅に譲り、突厥に集中対処し勝利を納めます。

 三~五世紀頃、ウガヤ王家の崇神が苦難の末、エビス王家の開化を娶り倭大王に即位し、数代後の応神の娘、仁徳が金官加羅の吹希王に嫁ぎ倭王に即位します。そのファミリーは東洋のブルボン王家と評され、倭王、百済王、金官加羅王を独占し、いわゆる倭の五王の時代を迎えます。安羅倭国はその事態を快く思わず、AD五百六十二年、安羅は新羅と謀り金官加羅を挟撃し滅亡させます。金官加羅の王侯貴族の中臣氏は新羅に吸収されます。卑弥呼と壱与を輩出した安羅王家から再び倭王を出します。それが、大伴談・金村・歌の三代で日本書紀では継体・安閑・宣下と書かれています。。この事態は安羅の失政と言われ、金官加羅の滅亡により勢力バランスが崩れ安羅の倭国は後に半島の権益全てを新興国の新羅に奪われ、半島から撤退することになります。半島から金官加羅と安羅倭国が消滅し百済と新羅は直に接するようになり、両国は緊張状態に入ります。

 六世紀後半には隋が勃興し中原に覇を唱え、隋帝国となり、拡大政策を継続していた高句麗と直接対決します。七世紀初頭、隋は三回、四回と高句麗を攻撃しますが、都度敗北し国力を衰亡させ隋帝国は短期間に滅亡します。

 AD七世紀初頭、領土拡大政策を顕わにし始めた新羅にインド・グプタ王朝のクシャトリア騎士団三千人が許太后の縁を頼り、満州を経由し到来します。長期間、男だけで移動しホモ軍団になっていたため、新羅の人達は彼等を花郎軍団と呼びました。新羅はこの軍団を外人傭兵部隊として受け入れます。花郎軍団の長官は「源花」と呼ばれ、兵士は「朗徒」と呼ばれ、後に「源花」の地位に旧金官加羅王族の金庾信が就任します。「朗徒」は後に源氏武士団となります。

 新羅が軍事国家として領土拡大政策を鮮明にし始めたため、高句麗、百済の両隣国は脅威を覚え、協力して新羅を攻めます。同じ頃、中原は随が滅ぼされ唐が建国されます。新羅は度々、金春秋を特使に派遣し同盟関係を結び、唐の藩屏国になり、唐軍に呼応して出兵しますが高句麗、百済連合軍に三十三城を奪われ危機に落入り唐に救援を頼みます。

 

「白村江の戦い」2

 BC213年、秦の始皇帝による焚書坑儒のため、孔子・孟子のガド族は亡命者となり、BC86年、九州の博多に渡来し、伊勢国を建国し猿田彦を王に戴きます。また、秦の滅亡により始皇帝子孫のシメオン族も亡命者となり、敵対したガド族を追い東表国のエビス王に亡命地の斡旋を請願します。エビス王は洛東江への半数移住や伊勢国の勢力伸張を厭い、吉野ヶ里の地をシメオン族に割譲します。BC74年頃、シメオン族は渡来し吉野ヶ里に委奴国を建国し、大国主命を王に推戴します。大国主命は世襲名となります。

 AD二世紀頃、東表国から半数が移住した洛東江の製鉄基地は順調に生産を伸ばし、伽耶地域の盟主の地位を築き金官加羅を建国します。初代王に金首露が就位し、印度のコーサラ国から黄玉妃を迎えます。後に許太后と呼ばれます。帯同した苗族達の水田作りも軌道に乗り、東表国から米を送らなくとも食料が賄える迄になります。

 AD163年、シメオン族大国主命は博多のガド族猿田彦の王宮を急襲し太陽神殿を徹底破壊し、博多に委奴国を遷都します。ガド族は二手に分かれ東進し出雲国と大和に入り東鯷国を建国します。

 AD214年、東扶余ウガヤ王家の罽須(イワレヒコ)は遼東のイカッサル族公孫氏大物主王家と同盟し大国主命の委奴国を挟撃し打ち破り、博多に伊都国を建国します。同時期に南扶余に伯済国を建国します。後の百済国です。イカッサル族大物主王家は日向の西都原に安羅国を建国します。シメオン族は二手に分かれ東遷しガド族の出雲国と大和の東鯷国を打ち倒し飛鳥に秦王国を樹立します。東表国に半数が残留していた中臣氏と蘇我氏は宇佐八幡に残留部隊を置き、大国主命の東遷に合流します。

 AD4世紀頃、金官加羅の末仇と奈勿尼師今の親子が辰韓十二国中の自分達の分家領地の斯廬国を独立させ新羅国を建国し奈勿尼師今が新羅王として即位します。金姓で、金官加羅と同様に蘇我氏と中臣氏が中枢を担います。

 既に、BC一世紀頃、東扶余から朱蒙が離脱し高句麗を建国しており、白村江の戦いの関係国は新羅の誕生により出揃います。中原は言わずもがな、随が滅び唐が勃興し大国への道を歩んで行きます。

「白村江の戦い」1

 BC1世紀頃、国東半島重藤海岸段丘の野タタラでフイゴを吹いていた男に砂鉄堀が、

「もう数十年で砂鉄が枯れるぜ」

「タタラの薪で山の木も無くなりそうだ、国東の殆どがハゲ山になった」

「砂鉄か鉄鉱石の有る処を早く見付けねばな」

 二人は3500年前にソロモンが各地に派遣したフェニキア人が運行する採鉱船団タルシシ船の乗組員でヒッタイト人(後の蘇我氏)の末裔であった。その時、重藤海岸に莫大な砂鉄の堆積層を見付け『野タタラ』の製鉄基地を築き、国東の森林から大量の薪を得て、西南の風をフィイゴに活用して大量の『ナマコ鉄』を作り、同船団の乗組員であったエブス人(後の中臣氏)が中国河南省の殷文化圏など各地に売り捌きました。そして400年後、エブス人、ヒッタイト人、シュメール人、苗族達が東表国(東方のオッフルの意、トウビョウは蛇神を表す)を打ち建てます。都は宇佐八幡(ヒッタイトの都ハットウサを捩り)と名付け、タルシシ船の船長のエビス王家のクルタシロスを初代王に担ぎます。クルタシロスは世襲名となります。

 二人のヒッタイト人が資源の枯渇を嘆いている同じ頃、都では北の海の向こうの朝鮮半島に派遣した調査船の責任者がエビス王に報告していた。

「エビス王様、半島南端部東寄りに位置する洛東江の河岸に大量の鉄鉱石の鉱床が見付かりました。数百年は掘り続けられそうです」

「それは、祝着じゃ。住民の様子は」

「疎らに人家は見られますが砦や武装集団は見られません」

「タタラに使う薪は」

「洛東江の周辺で充分入手できます」

「そうか、調査ご苦労じゃった」 

 エビス王は直ちに族長達を招集し、重藤海岸製鉄基地の代替地を洛東江河岸に定め、凡そ半数が移住する手筈を整えた。建国から千年、近隣諸国から千年王朝と謳われた東表国も資源の枯渇には抗い得ず転身の始まりとなった。

「上宮聖徳」13

 令和元年五月、上雉大古代史サークルOB四人組は明日香に入り小山田古墳を見ようとするが学校敷地内のため見学不可。西園寺が、

「小山田古墳の見学は諦めよう、斑鳩に行って若草伽藍跡地と藤ノ木古墳をみようや」

 皆で車に乗込み、島津が、

「藤ノ木古墳は1987年に石棺が開けられ、二つの遺体が確認されているんだ。北側が玉縲の太刀や馬具等豪華な副葬品を携えた上宮聖徳で南側の遺体が装身具を付けた干食王妃ホキキノイラツメなんだ」

 美佳が、

「だけど、偽史シンジケートの意を承けた四人ほどの考古学マニアの学生の手で若い男性二人の遺体にすり替えられたのよ」

 香苗が、

「骨考古学者が1993年被葬者は若い男性二人と発表したため、考古学者の間では蘇我馬子に同時に暗殺された穴穂部皇子と宅部皇子とする説が有力になったんだけど、この世に存在しない人に殺された遺体もありえないわね」

 車で斑鳩に移動した四人が法隆寺に到着、西園寺が、

「法隆寺の釈迦三尊像に光背金石文があるんだが、法隆寺創建当時のものではなく、日本書紀、古事記が成立した後に作られていて、上宮聖徳=聖徳太子を創出するための造文なんだ」

 美佳が、持参の読み下し文を読む。

「法興元三十一年、歳次辛巳(西暦621年)十二月、鬼前太后崩ず。明年(西暦622年)正月二十二日、上宮法皇、枕病して余からず、干食王妃、仍りてもって労疾し並びに床に諸く。時に王后王子等及び諸臣と与に、深く愁毒を懐き、共に発願仰いで仰いで三宝に依り、当に釈像を造るべし。尺寸の王身、この願力を蒙り、病を転じ、寿を延べ、世間に安住せんことを。若し是れ定業にしてもって世に背けば、往ききて浄土に登り、早く妙果に登らんことを」と。二月二十一日、癸酉、王后即世す。翌日(二月二十二日)、法皇、登遐(崩御)す。癸未(西暦623年)三月中、願の如く、釈迦尊像並び挟侍及び荘厳の具を鋳造し竟る。斯の微福に乗ずる、信道の知識、現在安穏にして、生を出で死に入り、三主に随奉し、三宝を紹隆して、ついに彼岸を共にせん。六道に普遍する、法界の含識、苦縁を脱するを得て同じく菩提に趣かん。使司馬・鞍首・止利仏師、造る。」

 香苗が、

「秦氏の氏寺、広隆寺では上宮夫妻が自害した十一月二十二日に供養のための火焚祭の法要を執り行い、法隆寺では金石文にある二月二十二日を命日として聖徳太子の御火焚祭を営み成り済ましを企図しているのよ」

 島津が、

「偽史シンジケートは徹底的に秦王国俀国を抹消し、日本書紀、古事記が真実であるとのプロパガンダを繰り広げていますね」

 西園寺が、

「プロト法隆寺が670年に落雷で焼失したと伝えられているが、上宮聖徳の痕跡を消してしまうための一環だったかもな。石舞台古墳、小山田古墳、プロト法隆寺等々広庭大王、アマタリシホコ、リカミタフリ、上宮聖徳と繋がるレビ族の事跡は全て抹消されたんだ」